. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第45講
■ 今日の「井戸掘り」

   「なぜなら、聖書にこうあるからです。『見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない』。」                         ペテロの手紙2:6A 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   イザヤ書では「これを信じる者は、、、」となっていますが、ペテロは「彼に信頼する者は、、、」としています。日本人は、信仰と言うと、頭で受け入れるだけのことを考えがちですが、信仰は、本来、依り頼むことで、「信頼する者は、、、」のほうが、誤解を避けることができますでしょう。

   キリストに信頼する者は、「決して失望させられることがない」のです。キリストは「尊い礎石」で、隅の親石が、建物全体を支えるように、信じ依り頼む者を支えてくださるお方だからです。

   旧約聖書には、神を「岩なる神」と表現している箇所が多く見出されます。「岩」は「泥沼」と対照されていて、「泥沼」は、そこに足を踏み入れる人が沈んでしまうのに対して、「岩」は、足を堅く支えることから、神のイメージとして用いられているのです。神は、どのような時にも、神に来る人々を支えてくださるお方です。ですから、キリストに依り頼む人は「失望させられることが」ないのです。

   「失望させられることがない」は、或いは「恥をこうむることがない」とも訳せると欄外註に記されています。「失望させられることはない」は、その依り頼んだ人の気持ちを中心として語るものであり、「恥をこうむることはない」は、他の人との関係において語るものです。他の人の前で「恥をこうむることがない」のです。証しが立つと言うのです。ヨハネは、同様のことを「神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか」と書いています。

■ キリスト、ペテロの足を洗う

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


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