. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第46講
■ 今日の「井戸掘り」

   「したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、『家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった』のであって、、、」                         ペテロの手紙2:7 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   「尊い礎石」と表現しましたが、キリストは必ずしも、すべての人々にとって「尊い」お方とはされないことが記されています。その人が「より頼んでいる」人か、「より頼んでいない人々」かによって、キリストへの評価は、真っ二つに割れてしまいます。

   信じより頼んでいる人々は、1章5節に見るように、キリストを見たことがなくても、愛し、栄えに満ちた喜びにおどるのです。しかし、信じていない人々、より頼んでいない人々は、キリストを蔑み、嘲笑います。イザヤが語ったように「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ」ます(イザヤ53:3)。これほど人々の評価が二分しているお方を他に見ません。

   キリストを知ることのできる唯一の手段は、信じより頼むことです。信じない者には、キリストはわかりません。信仰と言う鍵だけが、キリストという神秘への扉を開く鍵なのです。理性の鍵は、この神秘の扉の鍵穴には合いません。信じるとき、キリストと言う神秘の扉が開いて、その名が「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」であることが解ってきます。

   信じるとき、このお方が「私たちのために生まれ」、「私たちに与えられた」(イザヤ9:6)お方であることが頷けるようになるのです。信仰とは、そのことを心に捉えることなのです。ヨハネは「しかし、やみはこれを悟らなかった」(1:5欄外註)と書いていますが、この「悟らなかった」と言うギリシャ語の元々の意味は「捉えなかった」です。心で「捉えなかった」、すなわち、「悟らなかった」となるのです。

高知県・越知町の大樽の滝


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