. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第47講
■ 今日の「井戸掘り」

   「『つまずきの石、妨げの岩』なのです。彼らがつまずいたのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。」                         ペテロの手紙2:8 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   前の節に「より頼んでいない人々にとっては、『家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった』のであって、」とありますが、より頼んでいない人々には意外だったということです。建築家が使用できないとして捨てた石が、基礎の一番大切な石として用いられたのですから、それもそうでしょう。

   彼らにとっては、意外だったのみか、それが「躓き、妨げ」になりました。メシヤとして来られた主イエスは、イエスのような柔和なメシヤではユダヤ民族をローマの桎梏から解放できないとして、ユダヤ国家によって見捨てられました。しかし、父なる神は、そのイエスを、メシヤとして死からよみがえらせ、全人類の救いの基礎に据えられたのです。十字架につけられた者が、救い主であるとは、ユダヤ人にとっては意外であり、躓き、妨げであったのです。

   彼らが、みことばに聴き従うことをしていれば、十字架につけられた方が、メシヤとされても、意外、また不思議ではなかったでしょう。何回となく、そのことは予告されていましたから、、、。しかし、彼らはみことばを無視し、それに従うことをしませんでした。

   この節の最後の部分、「またそうなるように定められていたのです」は、「従わないからです」にかかるのではなく、「つまずく」にかかっています。従う・従わないは、聖定に関わることではなく、人の自由な選択にかかわることです。しかし、その結果「つまづく」のは、不服従の不可避的な結果であって、それは定められているのです。人は、二つのうちどちらかを選ぶ自由を有していても、その結果を選ぶ自由はありません。どちらかを選んだなら、その結果が必ずついてきます。それは不可避です。

高知県・越知町の大樽の滝


Copyright2004 PZH
Allrights reserved. 許可なく転載を禁じます。

■ トップ・ページにもどる