. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第50講
■ 今日の「井戸掘り」

   「あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」                         ペテロの手紙2:10 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   日本では、家の宗教と言う概念があって、多くの人は、生まれながら仏教徒、神道の信奉者と考えています。宗教は個人的な選択に関わる事がらではなく、代々継承するものと言う理解だからです。しかし、生まれながらクリスチャンと言う人も、いつの間にかクリスチャンになったと言う人もありません。すべてのクリスチャンには「以前」と「今」といえる明確な一線があります。すなわち、回心と呼ばれる経験をしたときです。それが「以前」と「今」とを分けているのです。

   回心とは、最初の救いの諸面を総合して表現する時の用語です。ウエスレアン・アルミニアン神学では、神学的に義認、新生、子とされること、初時的聖化が含まれると考えられています。義認は、罪の赦しと深く関わっており、罪が赦されることによって、神に受け入れられた者とされたことを示したいます。新生は、既にペテロによって語らえていました。神のことばによる、神の国への新しい誕生です。また、回心を通して、神の子としての特権に回復されました。そして最後が、初時的聖化ですが、これは、過去の罪の生涯によって生じた汚れをきよめる神の恵みの御業です。

   さて、回心「以前」と回心した「今」とでは、その立場に、また、神との関係に大きな違いがあります。「以前は神の民でなかったのに」、「今は神の民で」す。「以前はあわれみを受けない者であったのに」、「今はあわれみを受ける者です。」

   この違いは、立場上、また、神との関係におけるものだけにと止まりません。それは、道徳的な面、日常生活の歩みにも及びます。神に受け入れられ、神を知り、交わっていながら、元どおりの生き方をすることはあり得ないからです。この面は、ペテロによって、11節に「たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい」という勧告に見られます。

高知県・越知町の大樽の滝


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