. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第54講
■ 今日の「井戸掘り」

   「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行いを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。」                         ペテロの手紙2:12A 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   そのようなさばきが執行されるのは「おとずれの日」が来たときです。迫害に遭い、苦しむ神の民にとっては、それは神の「おとずれの日」です。しかし、迫害する者たちにとっては、それは「神の復讐の日」(イザヤ61:2)なのです。神の裁きは、二面性をもっていて、慈しみと厳しさ、恵みと義は、切り離して考えることができません。

   浄土真宗の親鸞の教えは完全な他力本願で、キリスト教の、無代価で提供さるる恵みの教理に類似していると言われます。しかし、両者間の大きな相違は、親鸞においては、ただ善も悪も、信心する者すべてを区別なく受け入れて、悪に対して正当な裁きを与えるという概念が完全に欠如しています。しかし、キリスト教においては、恵みは義の基礎の上に築き上げられていて、血を流すことなしには赦されることはないのです。ここにキリストの十字架での死の意義が浮き彫りにされてきます。十字架のいさおしによってのみ赦しが提供されているのです。

   最後に、何が「りっぱな」のかは、人間的な基準によってではなく、神の基準によって判断されなければならない、とのことを心に留めておきましょう。人間的な基準は、時代の変遷とともに変わってしまい、永続性がないからです。過去に「りっぱな」と言われたことが、他の時代では、そうでなくなったのでは、混乱を招くだけです。日本を例にすれば、戦時中に「りっぱな」と考えられていたことと、戦後「りっぱな」とされることでは、大きく異なりますでしょう。それは人間的な基準で判断された「りっぱ」さだからです。戦後の道徳的な混乱の一つの理由は、このように、戦前と戦後とでは、その基準が大きく変わったことから生じました。

高知県・越知町の大樽の滝


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