. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第55講
■ 今日の「井戸掘り」

   「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行う者を罰し、善を行う者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。」                         ペテロの手紙2:13、14 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   旧約聖書の歴史を辿ってゆくと、人祖アダムちエバの不服従によって罪が入り込んできた世に対し、キリストの贖いに対する信仰によって、それを乗り越えるまでの間、神は、人類をさまざまと導いて、キリストによる救い以外の手段が、如何に罪の解決に対して無力であるかを教えます。その一つが「人の立てたすべての制度」であって、国家とその法律・制度を通して、罪への対抗策を人類に試させます。しかし、人の罪は深く、どのような制度も罪に打ち勝つ力を人々にもたらしはしません。罪の力の前に「人の立てたすべての制度」も法律・国家の権力も力のないものです。

   しかし、それだからと言って、神は、そのような制度を意味ないものとは考えておられません。罪によって汚された世で、その秩序を守るためには、個人個人の良心の働きに頼るのみでは間に合いません。法律・制度といった機構が必要とされます。

   「人の立てたすべての制度」ですが、クリスチャンは「主のゆえに」それに「従う」よう勧告されています。彼らの国籍は天にあるのですが、彼らは旅人・寄留者として、この世にあります。旅人であっても、地上のある国にあれば、そこの法律に従うように、クリスチャンは、天国の市民であっても、この世の国家の制度に服するのです。しかし、それは「主のゆえに」、主を愛するゆえに、なのです。

   ここに「主権者である王」にしても、「王から派遣された総督」にしても、正しい治世者であることが前提として語られています。そのような権力者が「悪を行う者を罰し、善を行う者をほめる」という方向性を有しているかが問われます。しかししばしば、この世の政治権力は、自己保全のために悪を自ら行い、善を行う者を、政府に反対するからと言って弾圧・投獄したり、正義を曲げることがあります。ペテロの手紙の読者たちが通過しつつあったような迫害は、そのようにして生じるのです。

高知県・越知町の大樽の滝


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