. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第56講
■ 今日の「井戸掘り」

   「というのは、善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。」                         ペテロの手紙2:15 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   12節の「何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても」を受けて、「愚かな人々の無知の口を封じることは、、、」と書かれています。「異邦人の中でりっぱにふるま」うことは、既に述べたように、第一に「人の立てたすべての制度に、、従う」ことであり、また、あらゆる「善を行な」うことです。そうすれば、主の「おとずれの日」には、彼らは「神をほめたたえるようになり」、それまでの間は「無知の口を」閉ざすようになるから、と言うのです。

   ゆえのない誹謗・非難は、それにめげないで「善を行な」い続ければ、やがて、焚き火が消えるように、消えてゆきます。むきになって反論することは、必ずしも賢い姿勢ではありません。焚き火を扇ぐようなものでしょう。とは言っても、キリスト教の歴史を見ますと、殉教者ユスティノスのように、弁証家といって、この世の批判者に対して、キリスト教の真理を弁明しようとした人々も居ないわけではありません。ただ、歴史家たちは、このような弁証活動の効果は疑わしいと見ているようです。

   ローマ世界のキリスト教、クリスチャンに対する姿勢を変えさせたものは、後代に名を残した弁証家たちの活動よりも、無名のクリスチャン・信仰者たちの、キリストの復活を信じることから来る、死をも恐れない態度にありました。死に直面しての、彼らの平静さは、この世の人々の驚嘆の的となったのです。それは彼らを惹きつけ、やがて彼らが信仰へと導かれてゆく大きなきっかけとなりました。

   「主に信頼して善を行え。地に住み、誠実を養え。主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」(詩篇37:3、4)。

高知県・越知町の大樽の滝


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