. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第57講
■ 今日の「井戸掘り」

   「あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。」                         ペテロの手紙2:16 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   ローマ世界には多くの奴隷が存在していました。彼らが奴隷とされたのには、さまざまな事情があったようです。ある人は、戦争で敗北を喫し、勝者に奴隷とされました。ある奴隷は、借金を返済できず身売りしたからでした。当時、自由人はローマの人口の三分の一、奴隷が三分の二と言われています。ただ、近代の奴隷制度のもとにおける奴隷の立場とは大きく異なっていたようです。

   近代の奴隷制度下に於ける奴隷は、ジャマイカのような中南米の国々では、砂糖きび畑での労働者としてこき使われ、アメリカでは綿花の取り入れに動員されたようです。彼らは労働力としてもちられ、教育や教養は一切なかったのです。しかし、ローマ時代の奴隷は、時には大変な教養人で、主人の子どもの養育係りといった知的な立場で使われる奴隷もいました。信頼されていた奴隷は、主人の財産管理などもしたようです。

   クリスチャンの中には、社会的には、奴隷の立場の者も多くいました(18節)。しかしペテロは、彼らに「自由人として行動しなさい」と勧告するのです。自由人として自分の行動に責任を持って行動しなさい、、、と。奴隷は、すべての権利を奪われて、権利が一切ない立場でした。権利のないところには責任意識は生まれません。自由であってこそ、そこに責任ある行動が生まれます。

   クリスチャンは、キリストのある自由のゆえに、社会的には奴隷であっても、神の御前には、そして、信仰の兄弟姉妹の間では、自由人として責任ある行動を求められたのです。

   更にペテロは、「その自由を悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい」と勧めます。自由は、しばしば、それを履き違えて放縦に流れてゆく危険性を持っています。しかし、神の奴隷として、主人である神のみこころに生きるように勧めているのです。使徒パウロは、手紙の冒頭の自己紹介の文章に、しばしば、イエス・キリストの奴隷という表現を用いました。それはパウロにとって誇りだったからです。

高知県・越知町の大樽の滝

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