. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第69講
■ 今日の「井戸掘り」

   「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」                       ペテロの手紙2:25 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   「羊のようにさまよっていた、、、。」日本人にとっては、羊と言う動物はあまり親しみがありません。児童動物園で、触れるのが、羊を身近に見る機会でしょう。しかし、ユダヤ人にとっては、羊は、日常生活の周囲にいつも存在している生き物で、大変身近な存在でした。

   羊は、牧者なしには統制が取れない動物のようです。羊飼いが、杖としもとで導くことによって、群としての秩序を保つことができます。羊飼いがいなくなると、直ぐ混乱に陥ってしまいます。「さまよい」始めるのです。主イエスの、百匹のうち一匹が迷いでて、その迷子の羊を捜し求める譬えはよく知られています。

   ペテロは、読者、また、私たちの、キリストを知る以前の生き方を「さまよっていました」とズバリと表現します。自分では、何処に行くのかわからないで、ただ、右往左往していたのでした。人生の目的もなく、ただ、地上に生み出されたからといって、日々を無為に送っていました。自分のしたいことも分らず、あのことこのことと行ってみたものの満足は得られませんでした。

   そればかりか、羊がそうであるように、狼の目をつけるところとなり、襲われて傷つき、時に、いのちさえ落とすものさえ少なくありません。守ってくれる牧者がいないからです。「さまよっていた」とは、何と惨めな状態でしょうか。しかし、それが私たちの以前の姿だったのです。

高知県・越知町の大樽の滝

Copyright2004 PZH
Allrights reserved. 許可なく転載を禁じます。

■ トップ・ページにもどる