. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第70講
■ 今日の「井戸掘り」

   「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」                       ペテロの手紙2:25A 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   ここでキリストは「たましいの牧者であり監督者である方」と呼ばれています。羊が羊飼いを必要としているように、私たちのたましいは牧者を必要としています。羊飼いは、羊を導き、緑の野に伴われます。牧者の仕事は、そこで羊を養うことです。守ることです。わたしのたましいは、そのような養い、み守りを必要としているのです。

   また、たましいは監督者を必要としています。前回書いたように、監督者がいませんと、羊は群れからさまよい出てしまいます。それが危険のことであることにさえ気づかずに群を離れてしまうのです。監督者は、杖としもとでそのような行動を糾し、羊が群の中に安全に留まって、守られるようにします。

   「今は、、、帰ったのです。」クリスチャンになるのには、転機的な経験を経なければいけないことは既に書きました。勿論、転機を通過していても、それを自覚しないでいるということはあるかもしれません。しかし、転機を通過しないでは神の国に入ることは出来ないのです。この地上で、ひとつの国から隣の国に行く時、必ず国境にある検問所を通ります。そこで、入国に必要な書類の審査を受けてはじめて、隣の国に入ってゆくのです。同様に、この世から神の国にはいって行く時にも、ある一点を通過してゆくのです。それが救いの転機的な経験です。ここでは「今は、、、帰った」ということばで、そのことが示されています。

   「さまよっていた」者が、今は居るべき場所を見出したのです。それは牧者が導いてくださった羊の囲いの中です。

高知県・越知町の大樽の滝

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