. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第71講
■ 今日の「井戸掘り」

   「同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。」                       ペテロの手紙3:1 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   この節は「同じように」と言う句で始まっています。前節に「自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った」とありますが、「帰った」ということは、その牧者・監督者である方に従うことが当然と思われているのです。それで「同じように、、、服従しなさい」と続きます。

   そして、この節では、牧者・監督者である神に服従するだけではなく、「自分の夫に服従」するように言われているのです。7節には、今度は夫に対して、妻を「尊敬しなさい」と勧められています。パウロの手紙では、妻は夫を尊敬し、従い、夫は妻を愛し、養い育てるように勧められていますが、ペテロの手紙では、妻は夫に服従し、夫は妻を尊敬するようにとなっているのです。尊敬の念は、こうしてみると相互的です。そして、愛も相互的であり、キリストへの服従も相互的であることが分ります(エペソ5:21)。<br>

   ペテロの勧告で注目されることは、みことばに従っている夫に服従することが当然とされるのみか、「みことばに従わない夫であっても」服従するように勧められていることです。困難なことであっても、夫を神の許に導くと言う崇高な目的のために、無言で従うように語られています。その「無言のふるまい」が、やがて夫の心を捉え、夫が神に立ち返るということが始まるためにです。

   実際に、多くのこうしたケースを目にしてきました。家内の祖母は、広島県の片田舎で婦人宣教師に出遭い、信仰に導かれました。そして、娘とともに、その村の受洗者第1号、第2号となりました。その夫は村長で、酒をたしなむ人でした。しかし、祖母は、明治時代の女性の常として、長年、自分の夫に忠実に仕えてきたのです。ある日、思いがけない時に、外出先から帰宅した自分の夫が、家庭集会に来ていた牧師の前に手をついて「私にも洗礼を授けてください」と言うのを目の当たりにしたのです。夫に仕え続けた妻の「無言のふるまい」の勝利でした。

高知県・越知町の大樽の滝

Copyright2004 PZH
Allrights reserved. 許可なく転載を禁じます。

■ トップ・ページにもどる