. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第72講
■ 今日の「井戸掘り」■ 井戸を掘りましょう:
「それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。」 ペテロの手紙3:2
「あなたがた」とは、「たましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った」妻の立場にあるクリスチャンたちのことであり、「彼ら」とは、「みことばに従わない夫」たちのことです。
そのような夫であっても、信仰者である妻が、「神を畏れかしこ」んで「清い生き方を」するなら、それを見て、彼らもまた「たましいの牧者であり監督者である方のもとに帰って」来る、そして、神のものとなると、ペテロは書きます。
「神を畏れかしこむ清い生き方」には、二つの面が関わっています。一つの面は、内面的な面で、「柔和で穏やかな霊と言いう朽ちることのないものを持つ、心の隠れた人がら」であり、もう一つの面は、「髪を編んだり、、、」とあるような外側の飾りなどを身につける身体的な面です。
「心の隠れた人がら」がどのような状態にあるのかが、最も大切なことでしょう。しかし、内面的な面さえしっかりしていれば、外側はどうでもいい、と言うものではありません。心の隠れた人がらが「神の御前に価値ある」状態に保たれているならば、それは必然的に外側に現されるものだからです。外の、からだに纏う飾りは、内なるものの鏡だからです。
内面の実質は、外面の形式に反映されてこそ、力を発揮します。また、外面の形式は、内面の実質の支えられてこそ、意味を持ちます。この二つが揃っているとき、その人のクリスチャン・ライフは、感化力のあるものとなって周囲の人々を捉えるのです。
