. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第73講
■ 今日の「井戸掘り」

   「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ心の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。」       ペテロの手紙3:3、4 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   先回「神を畏れかしこむ清い生き方」の持つ二つの面に言及しました。外面的な面は分りやすいでしょう。ヘヤー・スタイルや身にまとうもののスタイル、また、それに似合うアクセサリーに関わることです。

   内面的な面は「柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がら」と表現されています。パウロの手紙にも「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新しくされています。」とあって、私たちの持つ二面性が取り上げられています。パウロは更に「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」と書いています(Uコリント4:16、18)。

   現代人は、あまりにも目に見えるもの、一時的なものに重点を置いて、それを磨こうとしています。からだのスタイル、ヘヤー・スタイル、着る物のスタイル、これらは皆、外的なもので、やがて過ぎ去ってゆくものです。「心の中の隠れた人がら」として身につけた霊・スピリットは永続的なものです。からだが死の時を迎えても、内なる人は永遠に生き続けるからです。真に自分のものと言えるものは、この内面的なものだけです。肉体は、天幕に喩えられえいるように、仮の住まいにしか過ぎません。

   その仮のものにあまりに気を遣いすぎて、内なる朽ちないものをなおざりにすることは決して賢い生き方ではないでしょう。

高知県・越知町の大樽の滝

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