. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第74講
■ 今日の「井戸掘り」

   「むかし神に望みを置いた敬虔な婦人たちも、このように自分を飾って、夫に従ったのです。」                   ペテロの手紙3:5 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   第4節に「神の御前に価値あるものです。」と言う句があります。人の前に価値があるとされているものは、時代の変遷とともに変化します。かって、大変価値があると思われたものが、時代が変わることによって無価値とされ、逆に意味のないものとされることさえあります。戦前の、赤紙一枚で戦地に赴き、天皇陛下のためにいのち差し出すという国家への献身は、戦後生まれの人には、理解できない馬鹿げたこととしてしか受け止められません。

   しかし「神の御前に価値のあるもの」は、時代とともに変わることがありません。神ご自身が不変の永遠の存在だからです。アブラハム・サラが生きた約4000年前の「むかし」も今も、神の御前に価値のあることは変わらないのです。そして、それは内面の「隠れた人」を柔和や穏やかな霊で飾るということです。

   ちょっと、横道にそれて、エホバの証人の人々が、イエス・キリストは、神の御子であっても、神ではないと主張していることを考えましょう。彼らの主長は「ライオンの子はライオンではない」と言っているようなものです。御父―御子と言う関係は、愛の関係において、また、その性質を同じくすると言う関係において、御父―御子の関係なのです。御父が永遠であれば、御子もまた永遠の存在です。それにも拘わらず、エホバの証人は、御子は、被造物の最初のもので、御父によって創造される以前は、存在していなかったと教えています。明らかに聖書とは異なったことを教えています。

   三位一体という教理は、確かに理解することが困難な教理です。しかし、自分で理解できないからと言って、聖書に教えられていることを否定することは、神のことばである聖書に対して間違った態度を取ることです。私たちは、理性によってではなく信仰によって、聖書の教えを受け入れ、受け止めるのです。

高知県・越知町の大樽の滝

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