■ 今日の「井戸掘り」■ 井戸を掘りましょう:
「たとえばサラも、アブラハムを主と呼んで彼に従いました。あなたがたも、どんなことをも恐れないで善を行えば、サラの子となるのです。」 ペテロの手紙3:6
夫に従った妻の例としてサラが引き合いに出されています。サラは「むかし神に望みを置いた敬虔な婦人たち」の一人でした。約4000年前に生きたアブラハム・サラの信仰に関して、パウロは「彼らは望みえないときに望みを抱いて信じました。」と書いています(ローマ4:18)。この2人についてなお知りたければければ、創世記12章から25章を読むとよいでしょう。
さてここで、ペテロが前の部分を受けて「柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持」てば、と書いているのではなく、「どんなことをも恐れないで善を行えば」と書いていることは興味深いことです。「妻の無言のふるまい」といったときの、その内容が、単に自分を飾るといった問題よりも、積極的に善を行うことにあるからでしょう。それが「神を畏れかしこむ清い生き方」によって意味されるところだからです。
ペテロは「最後に申します」と書いて、8節以降に、その「善」がどのようなものかを示しています。すなわち、そこに書かれていることは、「心を一つに」することであり、「同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜で」あることです。また、「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与える」ことです。
このような「善を行えば、サラの子となるのです。」「子」とは、先回、書いたように、性質を同じくする存在です。サラが「柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ」婦人であったように、サラの子も、同じ柔和で穏やかな朽ちることのない霊を持つのです。そして、そのような霊を持つ「心の中の隠れた人がら」から、善といわれる行いが生まれます。「善い行い」とは内的な実質の現れなのです。
