このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
■ 今日の「井戸掘り」
. . 「、、、選ばれた人々、すなわち、父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。」 ペテロの手紙1:1〜2F
■ 井戸を掘りましょう:
「選ばれた人々」とありますが、その御父の「選び」の意図・目的は2重です。第一が「イエス・キリストに従うように」とのことであり、第2が「その血の注ぎを受ける」ことであると書かれています。
旧約の時代、イスラエルでは、人にせよ事物にしても、それらを潔める時には、いけにえの動物の血を注ぎ掛けました。ペテロは、そのイメージを心に抱いて「選び」の目的をここに書き綴っています。聖めは、安易にもたらされるのではなく、そのためには大きな犠牲が伴うのです。旧約時代には、その犠牲が、牛や羊、鳩などのいけにえとされた動物でした。しかし、ヘブル人への手紙によると、動物のいけにえは、良心を罪から全くは潔めることができませんでした。なぜなら動物のいえにえは、来るべき時代の象徴にしか過ぎなかったからです。流された動物の血には実効力がありませんでした。
ペテロが「その血」と言っているように、イエス・キリストの血こそが、心と生涯の聖めをもたらすために唯一有効な、血潮だったのです。ペテロによれば、他でもない神の選びは、その血の注ぎをうけるようにとなされたものでした。罪の赦しは、確かに尊い経験です。しかし、選びの目的である「聖め・潔め」を無視しては意味がなくなります。赦しは、聖め・潔めへの土台を与えるものだからです。「聖化」という観点から見ると、罪の赦しも、罪の行為によって生じた罪の咎めから私たちの良心をきよめる恵みのみわざと受け止めることができます。その意味で、罪の赦しも、きよめのプロセスの一環で、初時的聖化と呼ばれています。一般に「聖め」の始まりとされています。私自身は、「聖め」の初まりはもっと早く、救い以前の先行的恩寵による感化も含めて考えるべきだと考えています。この点は別の機会に展開しましょう。
ヘブル人への手紙には、「もし、やぎと雄牛の血、また牝牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして、肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神にお捧げになったその血は、どんなにが私たちの良心をきよめて、死んだ行いから離れさせ、生ける神に遣える者とすることでしょう」(ヘブル9:13、14)と書かれています。キリストの血潮には、きよめの実効力が備わっているのです。罪の咎めから私たちの良心を潔め、罪の性質から私たちの心を解き放ちます。更に、キリストの血潮は、過去の罪の行為によって歪められた私たちの性質をもきよめ正して、キリストの御姿へと私たちを再創造する力を持っています。
「その血」と言われていますが、実効力があるのは、「血」によって象徴されるキリストの十字架上の贖いの御業なのです。父なる神がその贖いの代価を受け入れてくださったことによって、父なる神は、私たちに聖霊を注いで、その注ぎによって、私たち信じ、より頼む者たちに「聖霊の聖め」の御業をなしていってくださるのです。
■ キリスト、ペテロの足を洗う