. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第6講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「、、、選ばれた人々、すなわち、父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。」                      ペテロの手紙1:1〜2E 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   信仰生涯とは「イエス・キリストに従う」生涯に他なりません。以前にも書きしるしましたが、「イエス・キリストに従う」と言うとき、ギリシャ語では、3通りの従う形態が示されています。

   第一は、「聞き従う」と表現される服従の形態で、それは子が親に、奴隷が主人に、従う時の服従の形態です。「言われたとおりにする」と言う従い方です。子どもが成長するに連れて親子の関係・有り方は変化することでしょうが、子どもが小さい時、彼らに要求されることは「親の言うことを聞く」ことではないでしょうか。子どもは「いわれたとおりにする」ことを通して、服従するを学びます。親に聞き従うことは、将来、こどもが親から独立して生きるようになったとき、神に従うために大切な学びの期間なのです。

   第二は、「一歩下がる」に表現される服従の形態で、これは妻が夫に対して示す服従の形態です。妻はその伴侶者を敬うゆえに「一歩下がる」と言う姿勢を夫に対して取ります。神の御前で、夫と妻はそれぞれ対等な関係にあります。しかし、家庭の秩序を維持するために、夫に対して「一歩下がった」姿勢を取るのです。これは「謙譲」と言われる姿勢で、愛と信頼の関係から、その姿勢が生じてきます。妻は夫に対して、子が親に対して、また、奴隷が主人に対して、取るような何でも「言うとおりにする」と言う形態での服従は要求されていません。妻は夫に対して、尊敬の念から生じる謙譲の姿勢を取ることが期待されています。この「一歩さがった」姿勢が、「従う」と言うときの第二の在り方です。

   第三は、その「足跡についてゆく」という従い方で、主イエスが弟子たちに望まれたのは、この形で「従う」ことでした。キリストの後から、その足跡を辿りながら、キリストについてゆく姿勢、これこそが弟子に要求された「従う」姿勢でした。主イエスと現代のクリスチャンとの関係は、この形態でキリストに「従う」ことであると言えますでしょう。

   しかし、前項で書きしるしましたように、主イエスの「足跡についてゆく」には、その前提として「御霊の聖め」が必要とされるのです。心と生涯から「罪に傾いてゆく傾向性」が潔めされていないと、主イエスの足跡についてゆくことは難しいのです。

   ある人の意見によると、芥川龍之介を初めとする明治時代の文豪と言われる人々が、その生涯を自殺で閉じたのは、彼らが真面目な人だったからで、彼らが聖書に触れ、その高い倫理観に直面したからだと言っています。芥川龍之介などの文学者は、自分の一生懸命さで、キリストの足跡についてゆこうとし、それが不可能なことに気づいて絶望し、自らのいのちを絶ったのだと説明されています。「御霊の聖め」なしに「イエス・キリストに従う」ことを試みましたが、その試み・努力は絶望に終わり、自殺へと追い込まれたのではないでしょうか。「御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように」されることが必要です。

■ キリスト、ペテロの足を洗う

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


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