このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
■ 今日の「井戸掘り」
. . 「、、、選ばれた人々、すなわち、父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。」 ペテロの手紙1:1〜2D
■ 井戸を掘りましょう:
今日は「選びの手段」として整理した「御霊の聖め」について考えましょう。私たちが、キリストにあって受ける救いの全容を、ここでは「御霊の聖め」と表現しています。すなわち、救いの始まりから救いの完成に至るまでの全プロセスを「御霊の聖め」として捕らえているのです。
ペテロはユダヤ人で、ユダヤ人社会という文化背景を持って生まれ育ちました。彼の思想がユダヤ的であることは当然と言えるのではないでしょうか。ユダヤ教の経典でもある旧約聖書は「きよめ」について多くを教えています。その多くは祭儀的な「きよめ」に関してであり、祭儀的な「汚れ」の概念が背景にあります。祭儀的であれ、倫理的であれ、人は「汚れ」を持ったままでは、聖なる神の御前に立つことができません。聖なる神は、ご自身に近づくものに「聖」を要求されるからです。
それでここでは、キリストにある救いを、道徳的な「汚れ」が御霊によって潔められてゆくるプロセスとして語っています。さて、その潔められなければならない「汚れ」とは、どのようなものでしょうか。一言で表現すると、それは人の持つ「罪に傾いていく傾向性」であると言えます。この神から離れ、「罪へと傾いてゆく傾向性は」は、一つの原因だけではなく複雑な要因を有しています。
従来の聖化論(潔めに関わる教え)は、この「罪へ傾く傾向性」をアダムの堕落に由来する「罪の性質」(SIN)とのみ結びつけて、その「肉性」と呼ばれるものから潔められることが問題の解決であると説くことが通常でした。しかし、その後の聖化論の展開では、「罪に傾く傾向性」は「肉性」、しばしば、これは「道徳腐敗性」とも呼ばれます、からのみ生じてくるものではなく、もっと複雑な背景を持っていることに注目しています。アダム以来の「道徳的腐敗性」からの潔めとともに「罪への傾向性」の様々な要因からの潔めの必要を語るようになってきました。
その詳細な理論をここに展開することはできません。最近の聖化論を学んでくださいますように。いづれにしても潔めてくださるのは、聖霊なる神ですので、それらの潔めのプロセスは、すべて「御霊の聖め」と表現されるのです。
■ キリスト、ペテロの足を洗う