. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第4講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「、、、選ばれた人々、すなわち、父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。」                      ペテロの手紙1:1〜2C 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   ある人々は、「全知・全能の神においては『予知』と『予定』は区別できない。これらを区別して考えることは無意味なことだ」と言います。しかし、この聖句で見るように、聖書は明らかに「予知」という概念を導入しています。論理的な必然性がそのようにさせているのでしょう。

   第2節は、神の「選び」について、幾つかのことを述べいます。すなわち、選びの土台は「父なる神の予知」であり、選びの手段は「御霊の聖め」を通してであって、さらに、選びの目的は二重、「イエス・キリストに従うように」、また「その血の注ぎかけを受けるように」なのだと書かれています。

   さて、父なる神は何を「予知」して、ある人を救いに選ばれたのでしょうか。ウエスレアン・アルミニアン神学を信奉する人たちは、聖書に基づいて、神は、ある人が信仰を抱くことを「予め知って」、その人を救いに選ばれたのだと説明します。この神学では、キリストにおいて備えられた十字架による救いのみ業を、信じ、受け入れる能力は、「先行的恩寵」として、すべての人に賦与されていると考えます。その救いに先立つ恵みを、救いにまで至らせるか否かは、その人が如何にその先行的恩寵を自らに当てはめるかにかかっています。神からの尊い賜物は、感謝をもって受け取ることもできれば、嘲りをもって拒絶することもできるのです。神は、創造の時以来備わっている人の自由な意志を無視して、救いを強制するようなことはなさいません。また、ある人の決断・選択と無関係に、救いを拒むこともなさらないのです。

   改革派神学では、神の絶対主権をあまりにも強調して、他の神の性質を無視したため、偏った神観を抱き、神に関する偏った神学は、偏った救いの教理を生み出しました。彼らは、神の選びをその絶対主権にのみ結び付けて、人の意志・選択とは無関係に、救いに定められた人々、救いには選ばれなかった人々とを分け、また、救いの恵みと一般恩寵とを乖離し、二分するような方法で、神の「選び」を説明したのです。しかも、それは、この聖句が語る神の「予知」を無視した形においてでした。

   筆者は、ヤコブ・アルメニウスとともに、カルヴァンの後継者たちが踏み入った誤りを正す形で提唱されたアルミニアン神学を選び、その立場に立って聖書にアプローチしています。

■ キリスト、ペテロの足を洗う

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


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