. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第86講
■ 今日の「井戸掘り」

   「もし、神のみこころなら、善を行って苦しみを受けるのが、悪を行って苦しみを受けるよりよいのです。」                                      ペテロの手紙3:17 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   クリスチャン生涯の鍵は「神のみこころ」にあります。ただ「神のみこころ」と言うとき、「積極的な神のみこころ」(a positive will of God)と「消極的な神のみこころ」(a permissive will of God)とがあるというように整理しておくとよいでしょう。

   前者は、良いことに関わる神のみこころで、善なる神はそれらを積極的に望んでおられるということです。それに対して、この世にあっては避けることのできない悪に関わる神のみこころは「許容的」とされています。神はそれらが起こるのを、積極的に望んではおられないのですが、人に自由を与えた結果として、さまざまな悪が起こることを許しておられる。神が創造された世界は、完全で、よいものでした。しかし、その世界に罪が入り込んだとき、病いや災害といった願わしくない事態も生じるようになりました。そのようなことどもに関する神のみこころが「許容的な神のみこころ」と整理されます。

   いずれにしても神は完全なお方なので、積極的であれ許容的であれ、神のみこころも完全とされます(The perfect will of God)。

   この世にあっては、神の子たちは、善を行っていても苦しむと言うことがあり得るのです。神はそれを許しておられます。そのような時、信仰者は「悪を行って苦しむ」より「善を行って苦しむ」ことを選び、喜ぶべきだと、ペテロは書いているのです。もちろん、自ら進んで苦しみを求める必要はありません。あくまで「神のみこころ」なら、、、ということです。

高知県・越知町の大樽の滝

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