■ 今日の「井戸掘り」■ 井戸を掘りましょう:
「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊において生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」 ペテロの手紙3:18
先にペテロは「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました」と書きました(2:21)。ここでも再び「キリストも、、、」と、彼の主であるお方に目を向けています。ペテロの思いは、振り子が常に中心に戻ってゆくように、キリストへと導かれていったのです。それで今回書きしるしているこのデヴォーションのための読物の題を「ペテロと共に−キリストを想う」としました。
信仰者がアンテオケ教会で「クリスチャン」と呼ばれるようになったのも、多分、アンテオケのクリスチャンたちが、何かにつけてキリストを想い、キリストを語ったからでしょう。キリストは、彼らのいのち、すべてのすべてだからです。
初代のクリスチャンの心にあったキリストは、罪のために人々の身代わりとなられたキリスト、正しい方であるにもかかわらず、苦しみ、死を味われた方としてのキリストです。そして、その苦しみと死と目的は「私たちを神のみもとに導くため」であったとのことを深く自覚しています。イザヤ書には「私たちはみな、羊のようにさまよい」と書かれています。ペテロは、その予言を想い起こしながら「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです」書くのです。神のもとに導かれて、その方へと立ち帰ったのです。
伝統的な教会に俗する信仰者は、春レントの期間に、キリストの十字架の死を偲びます。しかし、レントの期間のみならず、いつでも、キリストの十字架の死へ思いを向けて、それをこころに留めることは、クリスチャンにとって益のあることです。
