. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第87講
■ 今日の「井戸掘り」

   「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊において生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」                                      ペテロの手紙3:18 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   先にペテロは「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました」と書きました(2:21)。ここでも再び「キリストも、、、」と、彼の主であるお方に目を向けています。ペテロの思いは、振り子が常に中心に戻ってゆくように、キリストへと導かれていったのです。それで今回書きしるしているこのデヴォーションのための読物の題を「ペテロと共に−キリストを想う」としました。

   信仰者がアンテオケ教会で「クリスチャン」と呼ばれるようになったのも、多分、アンテオケのクリスチャンたちが、何かにつけてキリストを想い、キリストを語ったからでしょう。キリストは、彼らのいのち、すべてのすべてだからです。

   初代のクリスチャンの心にあったキリストは、罪のために人々の身代わりとなられたキリスト、正しい方であるにもかかわらず、苦しみ、死を味われた方としてのキリストです。そして、その苦しみと死と目的は「私たちを神のみもとに導くため」であったとのことを深く自覚しています。イザヤ書には「私たちはみな、羊のようにさまよい」と書かれています。ペテロは、その予言を想い起こしながら「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです」書くのです。神のもとに導かれて、その方へと立ち帰ったのです。

   伝統的な教会に俗する信仰者は、春レントの期間に、キリストの十字架の死を偲びます。しかし、レントの期間のみならず、いつでも、キリストの十字架の死へ思いを向けて、それをこころに留めることは、クリスチャンにとって益のあることです。

高知県・越知町の大樽の滝

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