■ 今日の「井戸掘り」■ 井戸を掘りましょう:
「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊において生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」 ペテロの手紙3:18A
「肉においては死に渡され、、、」。ギリシャ語の「サルクス(しばしば『肉』と訳されている)」にはさまざまな意味がありますが、ここでは「肉体」を意味して用いられています。「霊において生かされ」は、欄外註にあるように「御霊によって生かされ」とも訳せます。ギリシャ語では、人間の「霊」を表すことばも、神の「御霊」を表すことばも、おなじ「プニューマ」だからです。
肉体の死は、罪の結果として世に入ったもので(ローマ5:12)、「正しい方・キリスト」は、死を見る必要はありませんでした。旧約時代のエノクのように「死を見ることのないように移され」て(ヘブル11:5)しかるべきお方なのです。しかし、私たち・「悪い人々」のために、すなわち「罪のために」身代わりとして死なれたのです。
真面目に、道徳的に生きている人々は、自分が「悪い人々」の範疇にあることを認めることは難しいでしょう。しかし、「正しい方・キリスト」の義と比較して、私たちの義を見るとき、イザヤが言うように、私たちの義は、ぼろ布のように汚れているのに気づきます。私たちが、キリストとではなく、周囲の人々と比較しているかぎり、罪の事実に気づくのが難しいでしょう。私たちの目を周囲から背けてキリストへ向けさせるのが、聖霊の認罪の働きで、この働きによって初めて人は罪の事実を深く知るようになるのですが、それまでは、人は「彼を尊ば」ず、「彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだ」と思い続けるでしょう。しかし、聖霊の働きによって「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた」(イザヤ53:3〜5)ことを頷くに至るのです。
「キリストは『一度』罪のために死なれました」が、再び死なれることはありません。ヘブル人への手紙を読むと、この「一度」の意味合いがよく分ります。「ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたので」した(ヘブル9:12)。
