. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第89講
■ 今日の「井戸掘り」

   「その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、、みことばを語られたのです。昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。」                                      ペテロの手紙3:19、20 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   難解な箇所です。ペテロは、その第二の手紙の中に、兄弟パウロの「手紙の中には理解しにくいところもあります」と書き、「無知な心の定まらない人たちは、聖書の他の箇所のばあいもそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています」と警告しています。「理解しにくい」聖書箇所があるのは事実ですから、そのような箇所を無理に解釈することはないかも知れません。

   先ず「キリストは捕らわれの霊たちのところに行って」とありますが、20節から、明らかに、神に従わないで死んだ人々の霊のことです。聖書は、そのような霊は「シェオル・陰府」、すなわち、死者の霊が、最後の審判を待つところ、に行くとしていますので、キリストは霊において、そこへ行ったということでしょうか。

   さらに「みことばを語られた」とは、どんな意味なのでしょうか。新改訳の第二版では「みことばを宣べられた」と訳されていましたが、第三版では「語られた」に改訂されました。「宣べられた」と言う訳が、キリストが行って、「福音を宣べられた」という意味に取られ、誤解を招きかねないからでしょう。もし、福音を宣べられたのであれば、福音を聞く機会が死後に提供されたことになって「セカンド・チャンス」を主張する立場を擁護する人々を支持することになりかねません。しかし、聖書の教える死という出来事の厳粛さに鑑みて「セカンド・チャンス」はないと、聖書が教えているとするほうが正しいでしょう。

   では、キリストが「語られた」ことは、どのようなことだったのでしょうか。多くの福音的な註解者は、キリストはさばきを宣告されたのだと理解しています。しかし、何故そのようなことを敢えてする必要があったのか理解に苦しみます。難解な箇所であることを覚えて、無理に解釈しなで保留としておいたほうがよいでしょう。

   ペテロの関心は、救われた「八人の人々」のほうにあります。それは、次の節を見ると明らかです。

高知県・越知町の大樽の滝

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