. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第91講
■ 今日の「井戸掘り」

   「そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。」                                      ペテロの手紙3:21A 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   洗礼は、信じた人が、先ず水に浸けられ、そして、水から引き上げられることによって死と復活が象徴されています。それで「バプテスマは、、、イエス・キリストの復活によるものです」と言えるのです。使徒パウロは、この点をローマ人への手紙の中で次のように論じています。

   「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです」(ローマ6:4)。ここで興味深いのは、パウロが「私たちも、死者の中からよみがえるのです」と書かないで、「いのちにあって新しい歩みをするためです」と書いている点です。

   私たちの死者の中からのよみがえりは、終わりのときに起こることで、直ぐには経験することが出来ません。それでパウロは、信仰者の生涯に今関わりのある「いのちにあって新しい歩みをする」というバプテスマが意味することを述べています。

   日本の教会の問題は、バプテスマがそのような意味を持っていることを弁えないで、洗礼を受ける人が可なりいることです。年間受洗者数は、過去と比べて減少はしているものの、零ではありません。それにも拘らず、総人口に対するクリスチャン人口は、ある一定のパーセントでずっと推移して増加しないことです。この現象の背後に、バプテスマを受けた人々が、必ずしも「いのちにあって新しい歩みを」継続しないで、教会の交わりから脱落していってしまうという事実があるからです。理由はさまざまでしょうから、教会としては、それらを分析してバプテスマ後の教会の交わりからの脱落を防ぐ方策を立てることは緊急の課題ではないでしょうか。

   バプテスマが、ペテロの書くように「正しい良心の神への誓いであ」ることを少しは理解したなら、ことは違ってくるかも知れません。

高知県・越知町の大樽の滝

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