. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第94講
■ 今日の「井戸掘り」■ 井戸を掘りましょう:
「こうしてあなたがたは、地上に残された時を、もはや人間の欲望のためにではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。」 ペテロの手紙4:2
ヤコブは「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」と書きました。人の与えられている本能そのものは、決して罪ではありません。それは創造主である神の賜物です。しかし、欲望がはらんで際限なくふくらんでくると、罪を生むようになります。人の欲望はコントロールされなければならないのです。
そのためにペテロは、人間の欲望に対するものとして「神のみこころ」に言及しています。神のみこころに心を留める時、神のみこころは、安全弁のように作用して、欲望が際限なく噴出すことをコントロールします。制御されない力は、用いることが出来ませんが、適切にコントロールされた蒸気は、タービンを回して、電気を起こすことも出来るのです。
キリストは「肉体において苦しみを受けられた」ということにおいて模範であるだけでなく、「神のみこころ」に従って生きることにおいても模範です。あのゲッセマネの園での主イエスの祈りは「わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」でした。キリストは、人間的な願望を、父なる神のみこころに委ねたのでした。
キリストに関する神のみこころは、大変厳しいものでした。世の救いのため、それは已むを得ませんでした。しかし「神のみこころ」は、神の子の誰にとっても、愛のみこころであって、必ずしも厳しいものではなりません。それが厳しいと思えるところに問題があるのではないでしょうか。
