. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第95講
■ 今日の「井戸掘り」■ 井戸を掘りましょう:
「あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。」 ペテロの手紙4:3
ローマ時代、そして、いつの時代にも、異邦人社会がどのようなものであるかを、ペテロのこのことばは暴露しています。それは「好色、情欲、酸酒、遊興、宴会騒ぎ、偶像礼拝」によって特徴づけられた社会です。今クリスチャンとなっているペテロの手紙の読者たちも、かってはその中にどっぷり浸かっていました。そのような信仰者に、ペテロは「それは過ぎた時で、もう十分です」と書き送っているのです。
パウロによると、異邦人社会がそのようになったのは「彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたから」なのです。「こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡され」たからです(ローマ1:25、26)。「彼らが神の知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのために彼らは、してはならないことをするようになりました」(ローマ1:28)。
真の神・創造主である神を見失った人類は、最早、自らを救うことは出来ません。人間のうちには、その技術をもってしても、知識をもってしても、自らをこのような不道徳から救い出す術は見出されないのです。人間は、セネカの言うように「外から差し伸べられた手を必要としています。」そして、その手こそ、イエス・キリストの手なのです。
