. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第97講
■ 今日の「井戸掘り」

   「彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方に対して、申し開きをしなければなりません。」                                      ペテロの手紙4:5 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   私たちの人生は、創造主である神からの私たちへの委託物です。預けられた尊い人生をどのように用いたか、人生の終わりのとき、それを授けてくださった主に、私たちは報告する義務を帯びています。マタイの福音書には、有名な「タラントの譬え」があります。

   創造主である神は、造られた人々を愛し、関心を抱いておられるので、そのままに放置なさることはされないのです。人々が、預けられた人生をどのように用いたかを知りたく願っておられます。それは愛の必然性です。

   私たちがもし、愛である神の期待に背いて、尊い人生を悪のために用いたとしたら、そのような用い方をしたことに対して、神に「申し開きを」、すなわち、弁明をしなければなりません。そのときが、裁きのときとして設けられているのです。肉体の死は、決して、すべての終わりのときではありません。聖書は、肉体の死を「第一の死」と表現し、「第二の死」があることを明示しています。さばきは、この第一と第二の死の間に設けられているのです。最初の死は「肉体の死」であり、第二のものは「たましいの死」であって、「たましいの救い」を経験していない人が経験する死であり、それは「永遠の滅び」とも言われています。神は、人がそのような「滅び」に陥ることを決して望んではおられません。ヨハネの福音書3章16節をごらんください。

   そのような人生の決算の時が定められているということを知ることは、人生が預けられたものであり、やがてのとき、それを清算する時があることを意識しつつ、人生を尊いことに用いる動機付けとなります。そのようなことを心に留めている人々は、与えられている日々を「神のみこころのために過ごすようになる」のではないでしょうか。

高知県・越知町の大樽の滝

Copyright2004 PZH
Allrights reserved. 許可なく転載を禁じます。

■ トップ・ページにもどる