■ 今日の「井戸掘り」■ 井戸を掘りましょう:
「というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした。」 ペテロの手紙4:6
難解な聖句です。ローマ・カトリック教会のように「煉獄」の存在を頷けば、その困難は解消するのかもしれません。しかし、問題は「煉獄」に関する教えが、聖書の正典には見出されないで、経外典にのみ記されていると言うことです。それで「煉獄」を聖書的な教理として受け入れることが出来ないのです。
また、ローマ・カトリック教会で、「煉獄」できよめられると言われているのは信仰者のことで、ここに見るような勝手な生涯を生きた果てに死んだ人々のことではありません。信仰者だからこそ、その肉体においては「さばきを受け」ても、その「霊においては神によって生きる」と言えるのです。しかし、この節は、未信者について語っています。それで、どう考えてもこの節は難解と言えるでしょう。
「死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、、、」は、「死後に」と理解してはならないと思います。「死後に」ではなく、彼らの「生前に」彼らには福音が宣べ伝えられていた、と理解すべきではないでしょうか。それにも拘らず、彼らは「好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけった」ので、「肉体においては人間としてとして」さばかれるのです。
さて「霊において神のよって生かされる」とは、どのような状態でしょうか。エホバの証人がいうように、信じなかった人々は、肉体の死とともに消滅してしまうのではなく「霊においては神によって生かされ」て、さばきの結果を、その霊において受けることとなると考えるべきでしょう。罪の報酬を受けて、滅びに定められるのです。「生かされる」は、滅びの状態にあって「生かされる」と理解されます。恐るべき状態での存在が語られています。
