. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの第二の手紙」 を読む : 第10講
■ 今日の「井戸掘り」

「ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行っていれば、つまずくことなど決してありません。」. . . . . ペテロの第二の手紙1:10 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   この節から、クリスチャンになったということは、神に「召され、選ばれたこと」であることが分かります。私たちは、しばしば、自分で自分の宗教を選んだような気になりますが、そうではありません。私たちの選択の背後に、私たちの意思決定に先立って、御霊なる神の働き掛けがあったのです。神の側で先ず、イニシャティブを取って私たちを召し、選んでくださったのです。

   ここに「召されたことと選ばれたこと」と言う順序になっていることに注目しましょう。改革派神学では「選ばれたことと召されたこと」と言う順序で、救いのプロセスを理解していますが、それは、順序を逆転させています。聖書は「召されたことと選ばれたこと」の順で語っているのです。しかし、カルヴァン主義では、神は先ずその絶対主権を行使して、無条件に、ある人を救いに選び、定めたと理解します。彼らによると、救いへの召しは、そのような人たちにのみ、掛けられるもの、、、と教えています。しかし、聖書では、先ず「召す」と言うことがあって、つぎに「選ぶ」と言うことがくるとあるのです。

   すなわち、ウエスレアン・アルミニアンの立場で理解するように、神は、すべての人に「召し・招き」を掛け、それに信仰をもって応答した人々を「選」ばれたのです。「召し」が先で、「選び」は、その招きに対する応答如何に関わっています。勿論、ここにペテロ第一の手紙1:2に「父なる神の予知に従って」とあるように「予知」という概念が入ってきます。時間的なことからくる難しさは、これによって解決しますでしょう。

   ウエスレアン・アルミニアンの理解では、神の「召し・招き」は普遍的で、すべての人に等しく与えられています。カルヴァン主義では、神の「召し・招き」は、特定の人々にのみ与えられています。ウエスレアンの立場で理解しているように、すべての人々に普遍的に与えられてこそ「福音の招き」といえるのではないでしょうか。

■ キリスト、ペテロの足を洗う

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


Copyright2004 PZH
Allrights reserved. 許可なく転載を禁じます。

■ トップ・ページにもどる