. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの第二の手紙」 を読む : 第9講
■ 今日の「井戸掘り」

「これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。」. . . . . ペテロの第二の手紙1:9 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   程度の差こそあっても、クリスチャンがこれらの品徳を備えていることが当然のこととして語られています。「これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、、、」。

   「自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです」。「きよめ」には、幾つかの段階が認められます。それですから、聖書に「きよめ」と言うことばがあるとき、それを直ちにウエスレアン的な理解での「きよめ」を指していると理解してはなりません。「きよめ」には、整理の仕方にもよるでしょうが、ある人に言わせると7段階、あるいは、7種類の区別があります。

   ここで言及されている「きよめられたことを、、、」とは、そのような整理による「初時的きよめ」と呼ばれるものであると見て間違いないと思います。すなわち、救いの最初の体験の一面としての「きよめ」で、回心の際に、義認・新生・子とされることなどに伴って体験される初期の「きよめ」です。ウエスレアンの主張する「きよめ」は、正確には「全ききよめ」として、「全き」という形容詞を付して表現されるべき「きよめ」で、第二の転機を通して体験される「全ききよめ」です。しかし、しばしば「全き」が省略されて、単に「きよめ」として言及されることがあって、誤解を招いています。

   「自分の以前の罪が、、、」における「罪」は、英語訳では複数です。すなわち、この時、きよめられたのは、全ききよめの対象としての罪の性質ではなくて、個々の行為としての罪、もっと正確に表現するならば、個々の罪の行為がもたらした罪の咎め、また、その咎めが生じさせた良心の痛みです。それらが洗い流され、最早、犯した罪の責任を自覚しなくなります。犯した罪を言い表して、赦されたからです。ここでは「自分の罪がきよめられたことを、、、」は「赦されたことを、、、」と置き換えて読んでも差し支えありません。罪の赦しが、罪のきよめの消極面であり「神のご性質にあずかる」ことが、きよめの積極面です。ここでは「きよめ」という主題に従って思想が展開されているので、罪の赦しが初時的な「きよめ」として語られています。

■ キリスト、ペテロの足を洗う

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


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