. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの第二の手紙」 を読む : 第8講
■ 今日の「井戸掘り」

「これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。」. . . . . ペテロの第二の手紙1:8 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   神の子たちは「役に立つ」、「実を結ぶ」者となることが期待されています。ここに「役に立つ」と言うとき、何よりもまして「主イエス・キリストを知る点で」であることを心に留めておきましょう。「主イエスを知る」と言うことが、他の面で「役に立つ」ための基礎的な事柄だからです。主イエスを知ることなしには、役に立とうと思っても、その力も恵みも見出すことができません。しかし、主イエスを知ることによって、その恵みが備えられるのです。

   また「役に立つ」と言うとき、先ず第一に、それは、人々のためにである前に、神にとって、、、であることを認識する必要があります。神に対して役立たずであったなら、人に対して役立ったといってみたところで、それは自己満足に過ぎません。神に対して役立つ者となることが、人に対して役立つ者となる土台なのです。

   「実を結ぶ」ことに関しては、次回、思い巡らすこととして、今回は「役に立つ者」となるために「これらが、、、備わり、豊かになる」必要があることに思いを向けて、今回のデヴォーションを締め括りましょう。「これら」とは、前の数節に記されている神の子として、加えてゆくように期待されている、信仰に始まるクリスチャン品徳です。信仰が、信仰で留まって、その他のものを加えてゆくように展開してゆかなかったら、その信仰は、何か異常を来たしてしまった信仰です。キリストを信じる正常な信仰は、花火のように、信仰から徳へ、徳から知識へ、知識から自制へ、、、と花開いてゆくべきものだからです。信仰と言う蕾のままで育たなかったら、その信仰はおかしいでしょう。

■ キリスト、ペテロの足を洗う

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


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