このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
■ 今日の「井戸掘り」
「私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。」 ペテロの第二の手紙1:16A
■ 井戸を掘りましょう:
ペテロを含む使徒たちは「目撃者」でした。彼らは、何よりも「キリストの復活」の目撃者でしたが、ここでは特に、使徒のうちの3人、すなわち、ペテロ、ヤコブ、そしてその兄弟ヨハネとが、更に「キリストの威光の目撃者」であると書かれています。「キリストの威光」とは、あの変貌の出来事への言及でしょう。キリストが、自ら纏っておられた人としての謙卑の姿を脱ぎ捨てて、キリスト本来の神性の輝きを垣間見せた時の出来事です。彼らは、キリストの威光に接したのです。
キリストの変貌の出来事は、キリストが「父なる神から誉れと栄光をお受けになった」出来事で、主イエスの30数年間にわたる律法を遵守しての忠実な歩みに対する神のご嘉納のときでした。また、弟子たちにとっては、ピリポ・カイザリヤで、ペテロが代表として告白した「あなたは、活ける神の御子キリストです」という真理を確かにする出来事でした。
そのとき、丁度主イエスの受洗の時にそうであったように、天からの声が掛かって「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である」と言われたのでした。ペテロを初めとする使徒のうちの3人は、この場面を目撃したのです。「聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの声を自分自身で聞いたのです」とペテロは、そのときのことを想起しています。大変に感動に満ちた、特異な体験でした。
ウエスレーは、信仰の判断基準として、当時の英国国教会で教えられていた「聖書と伝統と理性」という3つのものに「体験」を加えて、ウエスレーの四辺形といわれるものを主張しました。しかし、ここで、ペテロが聖書を体験に勝って確かなものとしているように、ウエスレーは体験を聖書の上に据えることはしませんでした。体験は、聖書の真理を立証するしもべとして用いられたのです。
■ キリスト、ペテロの足を洗う