. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの第二の手紙」 を読む : 第20講
■ 今日の「井戸掘り」

「キリストが父なる神から誉れと栄光とをお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。『これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。』」           ペテロの第二の手紙1:17 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   ステパノは、殉教を前にして議会に対して語った証し・説教なのかで、アブラハムに言及して「まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現れて、、、」と語りました。ペテロは、主イエスとともにあって、あの変貌の山で起こったことに言及するに当たって「栄光の神からの御声がかかりました」と、そのときの体験を記しています。

   「栄光の神」―詩篇の作者は、第19篇に「天は神の栄光を語り告げ、、、」と詠い、また、24篇では「永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる」と詠っています。

   霊なる神は、その本性そのものを被造物に示すことはなさいません。それは造られたものには耐え難いことです。それで、神は、ご自分の栄光を、すなわち、神の本性の輝きを、人にお示しになるのです。しかし、パウロは、ローマ人への手紙のなかで、人は「不滅の神の御栄を、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうものの形に似た物と代えてしまいました」と書いています。

   しかし、ペテロは違いました。キリストにあって新しく創造されたものとして、栄光の神の御声に接したのです。神の栄光を目の当たりにすることができたのです。それは、開かれた心の持ち主にしかできないことです。サウロ、後のパウロに、主イエスが顕現されたとき、サウロは、その御声を耳にしましたが、サウロと同行していた人々は、何か音は聞いたのですが、それが天からの御声であることには気づきませんでした。

   霊なる神は、しばしば、御声をかけておられ、ご自分の栄光を現しておられるのですが、受ける側のこころの状態、霊的な姿勢如何によって、それが捉えられる人と、それを理解しない人とが生じます。霊の世界の厳しさがここにあります。

■ キリスト、ペテロの足を洗う

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


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