このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
■ 今日の「井戸掘り」
「私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。」 ペテロの第二の手紙1:18
■ 井戸を掘りましょう:
「聖なる山」―山そのものに何か聖さがあるのではありません。創造主である神の臨在が、そこを聖なる場所と変えるのです。神殿も教会堂も、同様で、神の臨在があるので、それらは聖なる場所とされます。しかし、一旦、神の臨在が、エゼキエルの時代の神殿のように、見失われたら、そこは最早、聖なる場所として存続することはできなくなるのです。神の臨在がすべてです。
場所に限らないで、人も同様です。ある人が「聖い人」とされるのは、その人のうちに何か聖性といったものがあるからではなく、その人が神とともにあるからです。神の臨在・同行が、汚れたとされる者をも、その臨在のゆえに聖なる者に変貌させるのです。これがある人が聖いとされる理由です。聖めを得る、失うというのは、神の臨在が認められるか、見失われているかであって、それ以外の要素は、神の臨在から来る派生的なものです。
ここでペテロは、自分自身の体験を強調しています。ジョン・ウエスレーが主張したように、体験は確かに、真理を検証するのに大切な一つの要素でしょう。しかし、体験よりも、理性よりも、また、伝統よりも、もっと確かなもの、神のみことばがあることを忘れてはなりません。しばしば、ウエスレーの四辺形を言われますが、実際は「四辺形」ではなくて、聖書・神のみことばを頂点とする「三角錐」としなければなりません。体験、理性、伝統は、神のみことばによって保証された真理をさらに強固なものにするために用いられるべきものです。
近代のスピリットの過ちは、理性を聖書の上において、理性によって、神のみことばの真理を裁こうとしていることにあります。
■ キリスト、ペテロの足を洗う