. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの第二の手紙」 を読む : 第23講
■ 今日の「井戸掘り」

「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。」           ペテロの第二の手紙1:20 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   聖書を読むに際して、最も重要であり、基本的なことが述べられています。聖書の預言、すなわち、聖書と言うものは、預言、神のみことばを預かって、それが書きしるされている書物ですから、勝手な解釈を施してはならないのです。宗教改革の時代、マルチン・ルッターを初めとする改革者たちは「聖書は聖書によって解釈する」という大原則を打ち出しました。聖書の解釈は、聖書そのものでなければなりません。私的解釈が入り込む余地を与えてはならないのです。

   19世紀〜20世紀の「自由主義・リベラリズム」といわれる神学の立場では、その宗教解釈者たちの立場から逸脱して、「自由な」私的な聖書解釈を次から次へと発表しました。「自由な」と言うよりは、むしろ「奔放な」と言うべき聖書解釈でした。それによって、聖書が人に語ろうとしていたメッセージは損なわれ、聖書が何を告げようとしていたのかがぼやけてしまいました。「、、、してはならない」と言われる分野に、あえて挑戦したのです。それは教会にとって、害毒をもたらす以外の何物でもありませんでした。

   それで、福音主義教会と呼ばれるに至った人々は、宗教改革の伝統に立ち戻って、聖書信仰を中心とする神学をもって、自由主義陣営に対抗し始めました。その後、時代の経緯とともに「福音主義」が意味するところがぼやけてきてはいますが、福音主義の元々意味するところは、聖書に立った宗教改革の伝統を堅持する立場を表す語であることに変わりはありません。福音的な教会では、聖書を神のみことばと受け止めて、その立場から聖書の解釈に取り組みます。

■ キリスト、ペテロの足を洗う

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


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