. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの第二の手紙」 を読む : 第24講
■ 今日の「井戸掘り」

「なぜなら預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊によって動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」           ペテロの第二の手紙1:21 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   聖書が、他の書物と異なって、特異な書とされるのは、この聖霊による感動、すなわち、インスピレーションの事実にあります。ここに「インスピレーション」とは、専門用語で、一般に用いられるような、単なる芸術的の世界で用いられるような「インスピレーション・感動」と言う意味ではありません。

   聖書に関して「インスピレーション」と言う専門用語が用いられる時、それは聖霊による聖書の「霊感」を意味しています。すなわち、聖霊なる神が、聖書の人間的著者に干渉して、記者が、神の語り掛けを正確に把握し、それを誤なく記述するために助けを与えたこと、を意味しています。この意味での「霊感」は、聖書の記述に際してのみ見られる、聖霊の特殊な働きです。

   「霊感」の働きによって、その結果生み出された書は「聖書・神のことば」として、独自な書物となりました。人類は、この書を通して、創造主である神、また、そのみこころを知ることができるようになったのです。この書を閉じてしまったなら、人が神に関して語ることは、他の宗教では「悟り」といった表現が用いられますが、それらは所詮、想像の産物にしか過ぎなくなります。神的な保証がないからです。

   「聖霊によって動かされた」は「聖霊に担われて」とも翻訳できます。霊感における人間の立場は、受動的なもので、そこでは聖霊なる神がイニシャティヴを取られます。神が人々に感動を与えて、ご自分が、人類に伝えたく願っておられることどもを、誤ちなく、書き留めるようにされたのです。

   ですから19節に「人の私的な解釈を施してはならない」とあるのです。神が、そこに意図されたことを読む取ることが大切です。自分の考えを読み込んではなりません。

■ キリスト、ペテロの足を洗う

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


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