. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの第二の手紙」 を読む : 第26講
■ 今日の「井戸掘り」

「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現れるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。」           ペテロの第二の手紙2:1A 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   エホバの証人では、死後、信じていない人々のたましいは、消滅してしまって、その存在そのものが無くなると説いています。しかし、聖書は、主を否定する時、「滅び」という事態が起こることを警告しています。

   聖書の教える「滅び」と言う状態は、創造主であり、いのちの源である神との交わりが、完全に、また永遠に絶たれた状態で、永遠の死、第二の死(黙示録20:14、21:8)と言われています。それは極度の苦しみの状態です。

   異端の危険性は、そのような「滅び」を、異端に従って主を否定した人々に、もたらすからです。ローマ・カソリック教会から破門されても、主を否定しない限り、そのような状態には陥りません。また、改革派神学の救いの理解と異なったアルミニアン主義に基づく救いの理解・順序を信奉しても、滅びに陥ることはありません。滅びに定められるのは、ただ、主を否定した時のみです。

   「主を否定する」とは、聖書が、主イエスに関して、このお方は、真の神であり、真の人であると教えているのを否定することです。また、その尊い十字架上のみ業が、全人類の贖いの代価であったことを否定して、十字架を単なる自己犠牲の崇高な模範であると考えたり、創価学会の人々が批判するように、十字架の死は、敗北の死であり、意味のない死だったとしてしまうことです。

   さらに聖書は、主イエスは、死者の中から3日目に甦られたのであって、その復活こそが、私たちが義と認められ、義とされる根拠だということを教えています。主の復活を否定することは、すなわち、主ご自身を否定することに他なりません。

■ キリスト、ペテロの足を洗う

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


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