. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの第二の手紙」 を読む : 第27講
■ 今日の「井戸掘り」

「そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしられるのです。」           ペテロの第二の手紙2:2 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   「自分たちを買い取ってくださった主」を否定する最大の結果は、そのような人々は、「好色」に勝てないということです。人間的な欲望は、本来、創造主である神の尊い賜物で、それを本来与えられた目的に従って用いれば、祝福をもたらすものですが、「主を否定」した結果、欲望のコントロール機能が失われて、欲望のままに生きるようになってしまうのです。

   主を受け入れる時に、主の御霊が与えられて、その御霊がうちにあって、その人を導き、聖なる感化をもって正しく支配するようになります。人は、そのように、御霊にあって初めて、本来備えられている欲望を、それが与えられた意図に従って、用いることを学びます。使徒パウロは、ガラテヤの教会に「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」と書き送りました。

   しかし、御霊を持たないということは、御霊の支配に生きる代わりに、欲望に支配されて生きる結果を招来するのです。御霊と肉の欲望とは相容れません。ここにパウロの言う「肉」とは、ある人は、肉体と混同して、肉体そのものを悪の根源として断罪しますが、「肉」は、肉体を指すのではなく、神を離れ、神を見失って、自己の願望に生きる「生まれながらの人」を指しています。御霊を受けていない、キリストにある新生の経験を持たない人々のことです。「新しく生まれなければ、神の国」は見ること、経験すること、はできないのです。

   「真理の道」は常に、聖さと手を取り合って進んでゆきます。聖さのない真理は、真理といえる実質を備えていません。

■ キリスト、ペテロの足を洗う

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


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