. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの第二の手紙」 を読む : 第30講
■ 今日の「井戸掘り」

   「神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。」           ペテロの第二の手紙2:4 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   「神は、、、閉じ込めてしまわれました」―恰も既に起こったことであるかのように述べられています。しかし、聖書の他の箇所では、明らかに罪を犯した御使いたちは、臨在の御前からは追放されましたが、地上にあって、依然として暗躍していることが語られています。ですから、使徒パウロは、エペソ人への手紙に「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この世の暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」と書きます。しかも、ここには悪霊が「天にいる」とさえ書かれています。旧約時代のヘブル人たちの「天」に関する概念は、階層的で、第一の天、第二の天、第三の天といった理解を持っていたようですので、罪を犯した御使いたちが追われたのは、その一つの階層の天からで、それ以外の階層の天では、なお「天にいるもろもろの悪霊」と言わ得るのです。神がおられる「天」とは、「異なった階層の天」にです。

   いずれにしても、彼らはまだ「閉じ込められて」はいません。ですから、クリスチャンの霊的な戦いがあります。罪の中に死んでいる者たちにとっては「空中の権威を持つ支配者として、今も不従順の子らの中に働いている霊」の支配の下にあるのです。それでは、何故、ペテロは「神は、、、閉じ込めてしまわれました」と、すでにそのようになったかのように書いているのでしょうか。ヘブル人的な「天」の概念と同様、ここではヘブル人的な「時間」の概念が関係しているといえましょう。預言者の書をみますと、預言の確かさを表現するのに、将来の出来事を、恰も既に起こった出来事であるかのように過去形で言い表している箇所があります。例えば、イザヤ書9章6節には「ひとりの嬰児われらのために生まれたり。我らはひとりの子をあたえられたり。政事はその肩にあり、、、」(文語訳)とあります。残念なことに、新改訳聖書では、この箇所の予言の確かさを表現する過去形を無視してしまっています。メシヤ預言と言うことで、過去形では訳していないのです。文語訳のほうでは、原語の文型により忠実に翻訳しています。

   ペテロは、やがて起こることを、その確かさのゆえに、恰も既に起こった出来事であるかのように、過去形で表現しているのです。イザヤ書9章6節におけるイザヤの表現方法と同じです。その節の「閉じ込めてしまわれました」は、それですから、神は確かに閉じ込めなさいます、という信仰的な確信のヘブル的な表現方法なのです。私たちにとっては、未来の出来事であっても、時間を超越した永遠の神の御前では、既に起こった出来事として語っても差し支えないのです。

■ キリスト、ペテロの足を洗う

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


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