. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの第二の手紙」 を読む : 第31講
■ 今日の「井戸掘り」

   「また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち8人の者を保護し、不敬虔な世界に洪水を起こされました。」           ペテロの第二の手紙2:5 

   ダビデの時代は、紀元前約1000年、モーセが、紀元前約1500年、そして、アブラハムの時代が紀元前約2000年と言うのが判っています。しかし、ノアの時代となると「昔」としか言えず、紀元前何年といった年月で表現することができません。はっきりしないのです。

   神は昔、ノアの時代に洪水を起こされました。この洪水に関して、地質学的な面から、その痕跡が残されていないので、実際に起こったということを疑い、それを認めない学者がいます。聖書の記述と科学的な証拠との間に、このような矛盾が生じた場合、私たちはどのような姿勢を取ったらよいのでしょうか。ある人は、真っ向から聖書を否定して掛かります。

   私は、無理に解決しようとしないで、しばらく保留にするのが一番よいと考えています。科学の分野では、新らしい発見があるたびに学説が書き換えられてきましたし、聖書の世界でも、解釈の間違いが指摘されたことがしばしばあります。その最たる例が、ガリレオ・ガリレイによる地動説の主張がなされた場面でしょう。中世のローマ・カトリック教会は、聖書を誤って解釈し、天動説を信じていました。そして、ガリレオを断罪したのです。その過ちをガリレオの末裔に謝罪したのは、20世紀になってからのことでした。

   聖書の真理と科学的な事実とは、双方とも、神の御手によるものですから、決して矛盾することはありません。しかし、科学の分野における学説と聖書の特定の解釈は、しばしば対立します。ダーウインによって提唱された生物の進化論がその例です。対立があるとき、どちらかを否定するのではなく、保留して、新しい科学的な発見、新しい聖書の解釈を待つべきでしょう。

■ 井戸を掘りましょう:

   

■ キリスト、ペテロの足を洗う

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


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