このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
■ 今日の「井戸掘り」
「また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち8人の者を保護し、不敬虔な世界に洪水を起こされました。」 ペテロの第二の手紙2:5A
ここに「不敬虔な世」とあって、「不道徳な世」でも、「不義の世」でもないことに注目しましょう。不道徳、不義は、結果であって、不敬虔はその原因です。被造物である人は、創造主である神を見失うと、御霊との関係が絶たれて、「自然」と言われる本能的な欲望のコントロール機能を失うことは、いつか記しました。敬虔であることは、パウロが言うように「すべてに有益」なのです。そして、敬虔にこそ「今のいのちと後のいのち」に関わるすべてのことが約束されています。
ノアの時代は、そして現代は、敬虔を見失った時代、自分が神となって、創造主を蔑ろにしている時代です。そこに、ノアの時代、また現代の道徳的な問題のすべての原因があります。腐敗を止めることができない世界、そのような世界は、最早神の裁きを待つだけです。しかし、神は、何も理由を告げ知らせないで、突然に裁きを執行されるお方ではありません。ノアの時代には、ノアと言うひとりの義人を立てて、彼によって「義を宣べ伝え」させなさいました。現代は、教会を通して、そこに集うクリスチャンたちを通して、同様のことを行おうとしておられます。先ず、警告を与えて、しかし、人々がそれを無視して、なお不敬虔の道、不義の道に突き進んで行くとき、ついに、神の時が来てさばきが執行されるに至るのです。
ノアが宣べ伝えた「義」とはどのような義でしょうか。また、現代にあって教会が宣べ伝えるべ義とは、どのようなものでなければならないのでしょうか。ノアが宣べ伝えた義は、神の啓示に服従することによって与えられる義でした。神は、ノアを通して、彼が建造した箱舟に入るよう、人々を促されました。人々はその勧めに従うことによって、義と認められ、己が救いを得ることができたのです。現代においては、教会が宣べ伝えているのは「福音の義」と呼ばれる義で、それは、聖い生涯、そして、十字架の死によって、神の義となられた御子イエス・キリストを受け入れることによって認められ、与えられる義です。「福音の義」は、それですか「信仰による義」とも言われています。ノアの宣べ伝えた「服従による義」も「信仰による義」も、その根底に神の啓示に従うという原理が横たわっています。神の語りかけに、人がどのようない応答するかが、問われているのです。
■ 井戸を掘りましょう:
■ キリスト、ペテロの足を洗う