. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの第二の手紙」 を読む : 第34講
■ 今日の「井戸掘り」

   「また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。というのは、この義人は、彼らの中に住んでいましたが、不法な行いを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。」           ペテロの第二の手紙2:7、8 

   

■ 井戸を掘りましょう:

   創世記13章、そして、18、19章を読むと良いです。ペテロが手紙の中で言及している旧約時代の出来事が、この辺りの章に記録されていますので、背景がわかります。

   ロトの時代のソドムの住民たちは、旅人に性的行為を強要するほど道徳的に堕落していました。今日のペテロの手紙の箇所を見ると、そのことのゆえに、義人であったロトは、心を「悩まされていた」、「心を痛めていた」とあります。「去れよ。去れよ。そこを出でよ。汚れたものに触れてはならない。その中からでて、身をきよめよ。」と、イザヤのことばにありますが、その勧告に従うほどには、ロトの信仰には、積極性はありませんでした。彼は、その中にあって心を「悩まされていた」、「心を痛めていた」のでした。

   それでも神は、そのような消極的な姿勢の信仰者ロトを「義人」と呼んでくださり、その救出のために心を用いてくださるのです。その背後に、伯父に当たるアブラハムの必死の執り成しがあったことも事実ですが、、、(18章20節以下)。

   ソドムの道徳的退廃は、今日では、道徳的に退廃した状態を描写するのに「ソドムとゴモラのように」という表現を用いるほどです。神の裁きの執行は当然でした。もし、裁きを行わなかったら、ソドムの害悪は更に、他の町々へと広がっていった可能性があります。それを止めるには、その諸悪の源であるソドムの住民を根こそぎ取り除く以外には方法はないのです。腐敗が一旦ある段階を超えますと、それを癒すことは不可能で、取り除くことによってのみ、その汚れ・悪が、更に広がってゆくのを止めることができます。

   神の裁きには、常に二面性があって、裁かれる者たちには「厳しさ」として見られますが、ロト初め、他の町々の人々にとっては、神の裁きは、神の「憐れみ・慈しみ」の顕われです。

■ キリスト、ペテロの足を洗う

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


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