. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの第二の手紙」 を読む : 第35講
■ 今日の「井戸掘り」

   「これらのことでわかるように、主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。」           ペテロの第二の手紙2:9 

   先回、書きしるしましたように、主の裁きには二面性があって、「敬虔な者たち」にとっては、それは主の慈しみであり、「不義な者ども」にとっては、主の厳しさを知る時なのです。そして、主は誰が敬虔なものであり、誰が不義な者どもなのかを決して見間違うことをなさいません。主の判断は、常に正確で、正しいのです。

   更に、主は、裁かれるとき、人のように、表面的な、見えるところによってのみ裁くのではなく、その人の心の深みをも弁え知って、その知識によって裁かれます。マタイの福音書5章20節以下の、山の上での説教の中での主イエスのことばは、そのことを如実に示しています。行動とともに動機が、主の裁きの対象とされます。そのような主の御前に、誰が立つことができますでしょうか。主の贖いの御業がなかったなら、誰一人、主の御前に出ることのできる者はいません。しかし、誉むべきかな、主には豊かな贖いがあります。

   さて、ペテロの手紙に戻って、冒頭の「これらのことでわかるように」とあることばを思い巡らしましょう。ペテロは「わかるように」と書いていますが、私たち人は、これらのことを悟り、また、理解するのに如何に遅いことでしょう。わかるはずのことが、中々理解できません。霊的・道徳的愚鈍さ、それが神を見失った人々の特徴だからです。聖霊の働きをもってして、初めて人は、自分の実質を知ることができ、自分の真の姿、内面の姿を知るとき、愕然とするのです。そして、主の憐れみに依りすがる必要を自覚するようになります。

■ 井戸を掘りましょう:

   

■ キリスト、ペテロの足を洗う

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


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