このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
■ 今日の「井戸掘り」
「それに比べると、御使いたちは、勢いにも力にもまさっているにもかかわらず、主の御前に彼らをそしって訴えることはしません。」 ペテロの第二の手紙2:11
第10節の「栄誉ある人たち」は、「御使いたち」とも訳せると欄外註に書かれています。NIVでは「celestial beings(天的な存在)」とあります。新改訳聖書の欄外註の「御使いたち」のほうが文脈に添っているように思います。10節で、不義な者たちが「御使いたちをそしって」いるのに対して、11節に言われていることは、そしられている御使いたちは、「それに比べると」、「彼らをそしって訴えることはしません」と続くのですから、、、。御使いたちは、そしられても、そしり返さない、と言っているのです。
ここに、御使いたちは「勢いにも力にも勝っている」と言われています。ヘブル人への手紙の記者は、キリストが受肉されたことに言及して、「御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのこと」と書いています。この「しばらくの間」と訳されている語は、別訳では「いくらか」となっています(欄外註)。御使いは、人よりも遥かに勝る存在として創造され、主である神に仕えています。
「罪を犯した御使いたち」(4節)の首であるサタンが、大きな力を持っていることも、それですから当然です。ペテロが、その第一の手紙の中で「堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい」と書いていますが、サタンに対抗する道は、唯一「堅く信仰に立って」いるときのみ可能です。信仰の大盾なしには、人は、サタンに立ち向かうことはできません。そもそも創造のときから、与えられている能力が異なるのですから、、。
御使いたちは、罪を犯した御使いたちは別にして、創造主である神を畏れかしこんでいますので、裁きを神の手にゆだねることを知っているのです。それで、自らが「そしって訴ええること」はしないのです。神の裁きのときを静かに待っているのです。
■ 井戸を掘りましょう:
■ キリスト、ペテロの足を洗う