このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
■ 今日の「井戸掘り」
「ところがこの者どもは、捕らえられ殺されるために自然に生まれついた、理性のない動物と同じで、自分が知りもしないことをそしるのです。それで動物が滅ぼされるように、彼らも滅ぼされてしまうのです。」 ペテロの第二の手紙2:12
ヒンズー教の改革から生まれた仏教は、ヒンズー教の教えの要素を継承していて、人とその他の生物との間の差異を認めません。すべての生き物は、植物をも含めて、同じいのちによって繋がっているとしています。そして、一つのいのちの形態から、他の命の形態へと輪廻の輪によって縛られていると考えます。その輪廻の輪から逃れて成仏することが彼らの願いです。
キリスト教では、動植物のいのちは、神に創造されたものですから、尊いものとは認識しますが、人のいのちは、動植物のいのちと全然異なったものと受けとめています。人のみが、創造主の御像に似せて創造された存在で、地上の生き物のうち、ただ人のみが他に類を見ないユニークな存在なのです。この聖書の人間観は、科学の分野における進化論とも真っ向から対立します。進化論においても、ヒンズー教や仏教同様、すべてのいのちの共通性を主張するからです。日本において、進化論が広く受け入れられているように見えるのは、その思想的な土壌に仏教があって、すべてのいのちが、一つの源で繋がっているという理解が根底にあったからかも知れません。
キリスト教でも「一つの源」を認めますが、それは、創造主である神によって造られ、神に帰するという意味での「一つの源」なので、仏教や進化論のような、すべてのいのちが渾然として存在する「いのちの大海」があることを教えるものではありません。
この節では、動物は「理性がない」ことにおいて、人とは異なることが語られています。人のみが有する理性は、創造主の御像の一面で、知情意といった人格を構成する大切な要素です。理性・知を有して、人は始めて人たり得ます。
■ 井戸を掘りましょう:
■ キリスト、ペテロの足を洗う