. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの第二の手紙」 を読む : 第39講
■ 今日の「井戸掘り」

   「ところがこの者どもは、捕らえられ殺されるために自然に生まれついた、理性のない動物と同じで、自分が知りもしないことをそしるのです。それで動物が滅ぼされるように、彼らも滅ぼされてしまうのです。」                   ペテロの第二の手紙2:12A 

   この節には、動物に関して「捕らえられて殺されるために自然に生まれついた、理性のない動物」という表現があります。過去の歴史の中で、キリスト教世界は、聖書を正しく理解しないで、野生動物を、食糧として、また、狩猟ゲームの対象として狩りまくり、絶滅寸前まで追い込んだことがありました。北アメリカ大陸におけるバッファロー狩りなどがその好例です。今では、その過ちに気づいて、保護政策が施行され、バッファローの頭数もかなりの数に回復しているようですが、一時期は危機的な状態でした。動物を一面的に「捕らえられて殺されるために生まれついたもの」としか理解しないで、他の聖句に書かれている人間以外の被造物に対する、人の管理責任を忘却していたのです。

   聖書を解釈する場合、ある特定の聖句にのみよって、私たちのとるべき態度を決定してしまっては、誤った方向に導かれますでしょう。その特定の聖句を含めて、聖書全体で、そのテーマについて何が教えられているかを総合的に判断しなければなりません。それが欠如しますと、偏った判断に導かれてしまいます。

   創造の初め、人の食べ物として与えられていたのは、草木でした。ノアの時代の洪水の後、自然環境が大きく変わったからでしょう。人は食物として肉を食べることも許されました。それ以来、動物の受難の歴史が始まります。動物を「捕らえられて殺されるために生まれついた理性のない」生き物としか見ないで、食糧確保のため、また、狩猟といった趣味のために、野生動物をいくらでも殺害すると言う時代が長く続きました。近年になってやっと、イギリスにおける狐狩りなどに、法律的な規制が課せられるようになって、その姿勢に変化が見られたようです。動物愛護という概念がやっと息を吹き返してきたようです。

   この聖句が、動物について語っていることは、聖書の動物観の一面にしか過ぎないのです。仏教のように、動物を人と同じ輪廻のいのちの輪の中に組み込んで、そのいのちを人のいのちと同列に考えるような思想は、聖書にはありません。聖書の教えでは、人間と他の生き物との間には厳然とした境界線があります。しかし、動物のいのちをないがしろにしてすることは、誤った聖書理解に基づく考えからだということを認識する必要があります。動物のいのちをゲームのために奪うこと含めて、自然破壊に通じるような人間の行為は、厳として慎まなければならないでしょう。

■ 井戸を掘りましょう:

   

■ キリスト、ペテロの足を洗う

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


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