このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
■ 今日の「井戸掘り」
「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きを立てて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」 ペテロの第二の手紙3:10
■ 井戸を掘りましょう:
「恵みの年」に対して「主の日」です。恵みが提供されている期間は、主の忍耐のゆえに「年」、すなわち、比較的長い期間ですが、主の裁きの機会は「日」という短い期間で語られています。ここに主の慈しみを見ます。
「主の日」は、19節には「神の日」とあって、その日には、主である神が主人公であることが明瞭にわかります。人のなし得ないことどもが、主の御手によってなされるからです。
恵みの年では、神は、忍耐と憐れみをもって人と接しなさるので、人々に自由を与え、それで恰も、人間が主人公であるかに見えます。実は、そうではないのですが、そのように見えるほど、神は、カーテンの陰に潜んでおられます。
しかし、「主の日・神の日」、私たちの神の復讐の日には、異なります。主はカーテンの陰から躍り出て、その日の舞台の主人公として行動されます。それで「天は大きな響きを立てて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」今の天と地は、大きな変革の時を通過するのです。
人は、自然界の上に、その管理者として立てられているので、その人間への裁きは、必然的に自然界の処々に及ばざるを得ません。人だけの上に裁きが執行されて、自然界はそのままと言うことはありえないのです。人の罪ゆえに、自然界に変化が生じ、自然界は滅びの束縛の中に閉じ込められて、今呻いているように、裁きにおいても、天と地は変化を経験します。
裁きの結果、現在見ているような周囲の自然の秩序、人間社会の秩序は、大きく変わるのです。
■ キリスト、ペテロの足を洗う