徳永圀典の「日本歴史」そのS 

平成19年10月度 教育立国の日本

 1日

藩校と寺子屋

江戸時代の学校には、武士階級の子弟の為の「藩校」と、一般庶民のための「寺子屋」の二つがあった。藩校は儒学を重んじ、武芸を大切にし、経済実用の学も少しは教えた。 寺子屋は、読み書き算盤を主とし男女共学で女の先生もいた。民衆の自発的組織であり幕府の監督もない、補助もないものであった。
 2日

庶民には教育の欲求が高く、寺子屋は瞬く間に普及した。子供たちは一日数時間、一つ場所で先生から教えを受ける習慣が完成していた意味は極めて大きいものであった。明治の学制発布で政府は一挙に26千程の小学校を設置したがその多

くは寺子屋を転用したものであった。藩校の大半は廃絶された。寺子屋は国民に平等に開かれた小学校制度に吸収され、武士の子も、町人、農民の子と一緒に机を並べて競争しあったのである。ここに明治維新の革命にも似た特徴があったと言える。
 3日 能力主義 明治初期には小学校の卒業にも試験があった。能力に応じて上級学校へ進む道が出世を約束した。更に身分を問わず新たな指導者層を作る高等教育機関も整備された。誰でもそこに入る可能性が開かれていた。
封建的身分差別は教育によ
る能力主義により少しづつ壊された。日本の封建体制解体と指導者層の交代は、いい学校を出ようという新しい時代のエリートへの自由競争によりゆっくり進み流血の市民革命より穏健だか根本的変化を引き起こしたのである。
 4日 平等社会日本の基礎 武士の藩校の持つ特権を止め、武士階級の子供の入れる学校を作らなかったことが現在の日本の平等社会になった原因である。 ヨーロッパでは必ずしもそうではなくまだ階級意識が残っている。日本の明治の措置が適確であったから公平な社会になった。
 5日 不平等条約の改正への苦闘 幕末に日本が欧米諸国と締結した条約は日本人の誇りを傷つけるものであった。明治初年イギリス商人が条約で禁止されていたアヘンの密輸事件を起した。治外法権を行使して裁判に当ったイギリス領事は、アヘン

は薬用であるとして無罪を言い渡した。
これでは日本は完全に独立国と言えない。明治4年、1871年、岩倉使節団の予備交渉以来、日本は不平等条約の改正に取り組んできた。条約改正は日本の悲願なった。

 6日 鹿鳴館の哀しさと滑稽さ 明治16年、日比谷公園の側に鹿鳴館という洋風建築を作り外国人を招いて盛んに舞踏会を催した。これは日本も欧米並みの文化を持つ国であることを誇示しようとした皮相なものであった。 これにより日本は欧米並みと求められそれが不平等条約改正への契機となることを望んだ政策であった。背伸びして日本を棄て大きく西洋文化へと突き進んだ。これが敗戦後伝統を棄却する遠因である。
 7日 ノルマントン号事件 明治19年、イギリス汽船ノルマントン号が紀伊半島沖で暴風雨の為沈没、船長以下26人の船員は救出されたが、日本人乗客25人は全員が見殺しにされ溺死した。然し、海難審査したイギリ ス領事裁判所は船長に軽い罰を与えただけであった。この事件を境に条約改正を求める国民の声が一層強くなったのは当然であった。だがこれは明治末までかかる屈辱的なものであった。
 8日 40年がかりの不平等改正 ずる賢い欧米諸国は、日本がまた近代国家としての形を整えていないとの理由で改定に応じようとしなかった。日本は飽くまで欧米並みの制度を取り入れることにより、対等な扱いを受ける国になるべく必至の努力をしたのである。まず、憲法の制定、明治27年、

1894年、日清戦争開戦直前、イギリスは日本の近代化の努力を認め、ロシアの極東進出に対抗することを契機に日本との条約改正に同意した。治外法権を撤廃する日英通商条約の締結である。その後、日本が日露戦争に勝利するとアメリカ初めとして各国も治外法権を撤廃した。 

 9日 関税自主権 然し、経済発展に必用な関税自主権を含む完全な平等条約はまだまだという屈辱であった。日本が日露戦争に勝った後の明治44年にして初めて関税自主権を勝ち取ったのである。 明治の最晩年でありその間欧米は利益を収奪したのである。力こそ国家であり国民の益となることの証左である。岩倉使節団派遣から実に40年の歳月が経過していたのである。
10日 アジア最初の近代憲法 明治元年、1874年に発布された五箇条の御誓文は、その第一条で、立憲政治の確立を国の根本方針として宣言した。明治政府はその実現の為に努力を重ねていたのである。

明治7年、政変により政府を去った板垣退助らは、民選議院(国会)設立の建白書を政府に提出し国民が政治に参加かる道を開くことを求めた。 

11日 自由民権運動

これは1869年に設けられた建白書制度を利用したものであった。この制度は、身分や男女を問わず誰でも政府に意見を述べることが出来るものであった。この後、1890年の国会開設まで続けられ国会開設後は議会への請願制度に受け継が

れたものである。
建白書提出と共に板垣は高知県に士族中心の政治結社、立志社を作り藩閥政府に対抗、国民の自由と政治参加を主張する運動を始めた。これは全国に広まり自由民権運動と称された。
 

12日 憲法準備 明治18年、1878年、国会に先立ち地方議会が開設された。これは国民に議会経験を積ませることを目的としている。自由民権派は地方議会に進出し各地に

政治団体を作り全国的な結びつきを強めていった。明治18年には大阪に代表者が集まり国会期成同盟を結成し新聞や演説会を通じて活動を広げた。 

13日 政党の発生 明治14年、1881年、政府は10年後に国会開設を約束した。板垣退助が自由党、大隈重信が立憲改進党を組織しそれに備えた。地方篤志家の中には、外国文献を研究し憲法草案を作成するグループも現れた。これ等民間の憲法草案は一般国民の知的水準の高さと国民の強い愛国心を示すものであった。 条約改正と近代国家の建設には憲法と国会が必要であると政府も自由民権派も同様であった。だが自由民権派は急速に進めようとし、政府は着実に進めようとしていた。政府では伊藤博文が中心となり、ヨーロッパ諸国の憲法を参照、ベルギーやロシア、ドイツなどヨーロッパ諸国の憲法に範をとり草案準備をしていた。
14日 大日本帝国憲法の発布 明治22年、1889211日、大日本帝国憲法が発布され皇居で明治天皇から内閣総理大臣の黒田清隆に、776条からなる憲法の原本が授けられた。東京市内一面の銀世界の中、号砲が轟き、山車(だし)が繰り出し仮装行列が練り 歩く祝賀行事が行われた。大日本帝国憲法は、国家の統治権は天皇に在るとし、その上で実際の政治は、各大臣の輔弼(ほひつ)(助言)に基づき行われると定めた。また、政治責任は天皇に負わせないことも明記された。
15日 欽定(きんてい)憲法

国民は法律の範囲内で各種の権利を保障され、選挙で衆議院議員を選ぶことになった。
通常の法律や予算成立には

議会の承認が必要とされた。議会には衆議院の他に天皇により任命される華族を中心とする議員からなる貴族院が置かれた。 

16日 初の衆議院選挙 翌年の明治23年には初めての衆議院選挙が行われて第一回帝国議会が開かれた。選挙権は男子25才以上で、一定額以上の納税者に限定された。

然しこれにより日本は本格的な立憲政治は欧米以外では無理であると言われていた時代にアジアで最初の議会を持つ立憲国家としてスタートしたのである。

17日 内外の憲法評 憲法が発布されると、政府批判の論陣を張ってきた新聞も、「聞きしにまさる良憲法」であると賞賛した。新憲法は翻訳されて世界各国に通告された。
イギリスのタイムスは「東洋の地で周到な準備の末に
議会制憲法が成立したのは何か夢のような話だ。これは偉大なる試みだ」と書いた。ドイツの法学者イェーリングは「議会を両院に分け衆議院の他に貴族院を設けたのは最も賛成するもので私の持論を実現している」と褒め称えた。
18日 教育に関する勅語 明治23年、1890年、議会召集に先行し、天皇の名による「教育に関する勅語」が発布された。これは父母への孝行や、非常時には国家の為に尽くす姿勢、近代国家の国民としての心得を説いた教えで、昭和20年敗戦により占領軍命令により停止された。 だが、これは世界の国家・国民にとり最高の範として良いもので道義国家としての日本人の人格的背骨となすもので戦後の発展の精神的骨格をなすものである。今日の日本人の退廃はこの精神の欠如によるものである。
19日 朝鮮半島と日本の安全 日本はユーラシア大陸から少し離れて、海に浮んでいる島国である。この日本に向けて朝鮮半島が一本の腕のように伸びている。幕末から明治初期、欧米とロシアは植民地探しの最終局面で、チャイナは既に彼らの手中に落ちており日本近隣の地域が狙われていた。

これらの諸国は勿論、日本を狙っていた。
この隣国の朝鮮半島が彼らの支配下に落ちれば日本攻撃の格好の拠点基地となる。日本には後背地が無いから自国の防衛が極めて困難であり明治人は肌感覚の危機を痛感したのである。
 

20日 当時の朝鮮半島 朝鮮に宗主権を持っていたのは清朝であった。それ以上に恐怖であったのはロシアという大国であった。ロシアは不凍港が無く、東アジアの不凍港を求めていた。ロシアは1891年明治24年シベリア鉄道に着手、日本への脅威は差し迫 っていた。日本政府の中には、ロシアの脅威が朝鮮半島に及ぶ前に朝鮮を中立国とする条約を各国ら締結させ中立の保障の為に日本の軍備を増強するという考え方も存在した。朝鮮の李王朝は腐敗し切っており国際環境に蒙昧であった。
21日 朝鮮半島を巡る日清の対立 清国はアジアに進出する欧米をどのような立場で見ていたのか。明治12年、1879年、長期間に渡り清国に朝貢してきた琉球が沖縄県となり、日本の領土に組み込まれたのは大きい衝撃であった。
1884年清国はフランス

に敗れ、朝貢国ベトナムがフランスの属国となり、次々と近隣の朝貢国が消滅して中華帝国の秩序崩壊の様相となって行く。ここで清国は最後の朝貢国の朝鮮だけは失うまいとして日本を仮想敵国とするようになった。 

22日 (じん)()事変

日本は朝鮮の開国後、その近代化を助けるべく軍制改革を支援した。朝鮮が外国の支配に服さない自衛力ある近代国家となることは、日本の安全にとり重要であったのだ。
ところが1882年、明

治15年、朝鮮で軍制改革に取り残された一部朝鮮軍人の暴動が発生した。((じん)()事変)。清国はこれに乗じて数千の軍隊を派遣して暴動を鎮圧し日本の影響力を弱めた。
23日 (こう)(しん)事変 1884年明治17年、日本の明治維新に見習い朝鮮の近代化を推進しようとしていた金玉均らのクーデターが発生したがこの時も清国の軍隊は親日派を徹底的に弾圧した。(甲申事変) 1886年、明治19年には、清国は購入したばかりの軍艦・定遠などからなる北洋艦隊を、親善を名目に長崎に派遣してその軍事力を誇示は日本に圧力をかけた。
24日 日清戦争 明治27年、1894年、朝鮮南部に東学の乱((こう)()民戦争)という農民暴動が発生。東学党はキリスト教(西学)に反対する宗教・東学を信仰する集団であった。彼らは外国人と腐敗した役人の追放を目指し、一時は 首都・漢城(ソウル)に迫る勢いであった。
僅かな軍隊しかない朝鮮は清国らその鎮圧の出兵を求めた。日本も甲午事変後の清国との申し合わせに従い、軍隊を派遣し日清両軍が衝突し、為に日清戦争が始まった。
25日 日本の勝因 日清戦争の戦場は朝鮮の他に南満州などに広がり、陸戦でも海戦でも日本は清国に圧勝した。 日本の勝因は、軍隊の訓練、規律、新兵器の装備が勝っていたこともあるが、その背景には、日本人が自国の為に献身する国民になっていたからである。
26日 下関条約 明治28年、1895年、日清両国は下関条約を締結し、清国は朝鮮の独立を認めた。ここに朝鮮は初めてチャイナから開放され、後に日本の支援で大韓帝国となり朝鮮史上初めて王か ら皇帝を称号することとなったのである。
また清国は日本政府の財政収入の三倍に当たる賠償金3億円を支払い、遼東半島と台湾などを日本に割譲した。
27日 三国干渉 然し、日本が簡単に列強国となるのを欧米・ロシアは許さなかった。東アジアに関心の高いロシアは、ドイツ、フランスを誘い、彼らの強烈な軍事力を背景にして、日本が中国から割譲された遼東半島を返還するように迫った。これを三国干渉しいう。  清国に勝ったとはいえ、独力で彼らに対抗できない日本は、止むを得ず一定の賠償と引き換えに遼東半島を手放した。これは極めて屈辱的なことで我々の世代には強い記憶がある。故事にある「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」を合言葉に日本の官民は挙げてロシアに対抗する力の充実をと誓ったのである。
28日 中華秩序の崩壊 日清戦争は、欧米流の近代立憲国家として出発した日本と中華帝国との対決であった。眠れる獅子と言われその底力を恐れられていた清国が、世界の予想に反して新興国の日本に脆くも敗れた。 それは古代から続いた東アジアの中華秩序を崩壊することを意味した。その後、列強国は清国に群がり、忽ちにして夫々の租借地を獲得し中国大陸進出の足がかりにした。
29日 親ロか親英か 19世紀から20世紀初めにかけて日本は弱肉強食の過酷な世界の中にいたのである。極東の小さい島国の国力では単独で国を防衛するのは不可能であった。力のある大国と同盟関係を結ぶ以外に生存できる方法は 無かったのである。現在の日本人には到底肌感覚で理解できないであろう。三国干渉により屈辱を味わった日本は、同盟を結ぶ相手はイギリスかロシアかの選択を迫られたのである。
30日 両論 日本の独立を確保するのにロシアかイギリスかの選択である。容易なことではなかった。アヘン戦争を知悉していた伊藤博文らの元老はロシアと結ぶ親ロ政策。小村寿太郎ら外務省幹部や桂太郎首相はイギリスと結ぶ親英政策を主張した。両論の焦点はロシアの見方であった。 ロシアは1900年、中国で起きた義和団事件を口実に満州(中国北東部)に2万の兵を送りそのまま居座っていた。ロシアが満州に留まり朝鮮半島に出でこないようにロシアと話し合いがつつくかが最大の焦点であった。論争に決着をつけたのは小村寿太郎の意見書であった。
31日 日英同盟締結 これは結果的に成功であった。1901年、小村寿太郎は、日露条約と日英条約の利害得失を論じ日英同盟が優位であると主張したものであった。小村意見書は1901年、明治35年に政府方針として採択され、 それにより交渉した結果、明治35年日英同盟が締結された。当時ロシアは実際に朝鮮半島に進出しロシア領土とする意図があり小村の判断は正解であった。日英同盟はこの後20年間日本の安全と繁栄に大きく寄与したのである。