傘寿」記念特集   雲斎の「回想」 人生とご縁 その二   

    はるけくもあゆみ越しかな山々を 八十になれど道なお遠し  岫雲斎圀

        住友家家訓    住友村  住友村2  住友銀行本店営業部の大伽藍

        徳永圀典の「住友銀行」とは                「岫雲斎の回想」−−総括索引

この二つのビルで私は24年間過したことになる。

懐かしき
住友銀行本店
思い出溢れる
住友銀行神戸支店

平成22年2月

 1日 無上の幸運 私の人生で最高のものは何と申しても安岡正篤先生との個人的邂逅である。住友勤務の最高の副産物であり無上の幸運であった。 私の人生はこれにより座標軸が確としたものになった。随喜の思いがある。
 2日 安岡正篤先生と
片岡菊雄先生
安岡正篤先生と片岡先生は40年以上の付き合いであった。片岡先生の兄上が河内師友会の会長であり近鉄の役員であられた。安岡正篤先生とは表面に出ないで個人的な関係に思えた。 安岡正篤先生が高野山の管長である兄上の堀田真快さんの元に避難され病気になられた折、安岡正篤先生を大阪の住友病院に運び手厚い看護をなされたのは片岡先生であった。
 3日 私の宝物、安岡正篤先生の「色紙」 片岡先生は実に親身なお方であった。安岡教学の篤実な教徒であったが安岡正篤先生とは、親しい気のおけぬ風の間柄に思えた。形式ばらない、身内的な雰囲気があった。通常では大銀行のトップクラスしか会えないようなお方であり、私の安岡正篤先生との初対面が宴席がであったのは奇跡に近い。安岡正篤先生と片岡先生との身内的な関係だから可能であったと思われる。初対面で、安岡正篤先生が私の為に揮毫をして下さった原因は片岡先生のお蔭である。 私の宝物となった揮毫、それは、

修徳永善是圀(しゅうとくえいぜんぜこく)(てん)」である。
この事を人事部長から専務になられ、後に日本総合研究所の理事長をされた私の尊敬する花村邦昭氏は、あんたは大変な宝物を貰ったと言われた。
 4日 片岡先生と台湾へ 台湾への目的は、蒋介石廟へのお参りである。これは私の少年時代「恨みに報いるに徳を以てす」と中国から日本軍人を無事に帰還させたことをご恩に感じていた経緯を片岡先生に告白した事と関係がある。それが動機で蒋介石総統とご縁の深い安岡正篤先生を紹介して下さったのである。台北空港に着いた、安岡正篤先生の紹介状があり公賓であり税関はフリーパス、特別扱いで総統の御陵を参拝したことは申すまでも無い。 歴史的人物で蒋総統の右腕の何応欽将軍を訪問し海苔をお土産に持参した。続いて全人代議長と周外務次官を歴訪。その後、蒋介石総統の腹心・王新衡氏を訪問し片岡先生が安岡正篤先生の色紙の事を話すとそれに応じた色紙を頂戴した。まさに多逢聖因 縁尋機妙を実践するようなものであり感激した。
 5日 片岡先生との交流 先生とは住友銀行退職後今日までも続いている。鳥取木鶏研究会を始めた頃だから23年前には、先生を講師としお招きして会員に印象的な講話をして貰った。私の住友時代、支店で職員教養講座を毎月一度行い、講師に先生をお願いしたりしていたその延長線上でもあった。 職員に対して、仕事以外にも、日本という国の伝統とか歴史とか色々と広め理解する努力を当時から私はしていたのである。支店長室には教育勅語の口語訳を表装して掲げて希望する顧客に差し上げていた。感激した顧客の社長が掛け軸風の教育勅語を自費で作成し沢山提供してくれたのである。
 6日 交流35年 娘の結婚式にも片岡先生に鳥取にお出でまし願い祝辞もして頂いたり用瀬の本宅にお招きし食事もしたことがある。九州は鹿児島県の奥様のお里に近い温泉に共に旅行したこともあった。 先生とは実に忌憚ない関係が成立していた。関東にも共に旅行したり、ご夫婦を秋の大山の紅葉見学やら松江宍道湖などお招きしたこともある。深い交流が続いている。
 7日 人生の師 銀行支店長時代から通算すると延べ35年以上のお付き合いとなる。私は先生をいまなお尊敬し敬慕してやまない。安岡正篤先生と共に日々その御徳風を慕っている。両先生とも私の人生にかけがえのないお方であり師である。 片岡先生が「(いち)(ぼう)一条(いちじょう)(こん)とよく言われた言葉がある。人間、何かものする時、棒で叩いた跡が一条につくような迫力ある仕事をしなくてはならぬという気合の言葉である。
 8日 片岡先生敬慕の詩 今猶、老師(ろうし)敬慕(けいぼ)(どう)(えん)あい(つど)う鳥取木鶏会昨秋にて早や二十余年に喃々(なんなん)とす。老師に導かれし活学を求め、師の含蓄(がんちく)を覚りその(しょう)(えん)、道縁に篤きものありて老師の供恩(こうおん)(おも)うこと深し。 現今日本、末世(まっせ)の風潮を慨嘆(がいたん)するも我ら青年の気概充満、ここに一燈(いっとう)を再び点火(てんか)せんか(しょう)(ぐう)(ぎょう)草莽(そうもう)の同志 (ゆう)(こう)の心は(かた)し。
 9日 故・小野徳行氏 小野氏は神戸大学から東大を卒、住友銀行ニューヨーク支店長をして帰国し専務となった。若い頃、私が神戸支店の外人・貿易担当をして取引先課にいたころ、外国部からやってきて業績の督励をする、少々生意気な理屈を言うので、そんな偉そうに言うなら一度顧客を訪問しやって見ろと言った。同行して顧客を案内したが、流石に色々と感心した。 それから二人は気持ちが打ち解けて親しくなった。私が支店長時代、小野氏は常務、私が業績表彰を受けに度々本店に行くので業績表彰の常連みたいだね。とか、徳さんも若い時は元気でイキよかったよとか言っていた。定年後、便りが来て老後の過し方を教えてやるよとか手紙が来たりしてたが早々と鬼籍に入ってしまって寂しい。心からご冥福をお祈り申しあげる。
10日 故・土田常務 当時業務部長であった土田氏が私の支店(大阪市)を訪ねてきて言う「徳永さん、あんたに、次ぎは更に大きな支店の支店長をして貰うから」と言った。その後、アメリカへ十日余りの出張があった。土田氏の話を期待していたある日、頭取から呼び出しがあった、本店三階、松の廊下の10センチあるかと思うような赤絨毯を歩いて頭取室に入る。頭取は小松康氏であった。本店人事部審議役を命ずの特命付き発令であった。その時の人事担当副頭取は私の神戸時代の次長であった巽副頭取。(後に頭取)。 私はあっと驚いた。土田氏は人事部長となっていた。なぜ私が人事部?、K次長(最後は副頭取から住友ビザカードの社長)に叫んだ。親指を示された。土田氏は私が神戸の課長時代は本店営業部の課長で、私の故郷・用瀬町出身の幼馴染・吉田忠明氏(元東京国税局長、元トマト銀行頭取)と大学の親友。土田さん、心からご冥福を祈りあげる。審議役室は住友銀行本店五階の人事部隣室、応接セットもある私一人の部屋、朝夕には採用課の有田さん、宍戸さん等才媛ばかりの女子職員がお茶を入れてくれて毎日午後5時には退出した。
11日 人生意気に感ず 住友銀行は部長・支店長以上は55歳で勇退する。私は職業としては銀行員しかしていない。所謂、預金窓口とは無関係で過した。外国関係通算10年、取引先関係6年、本店勤務11(含む外国)、支店長8年。神戸支店は在籍1310ヶ月、歴代支店長が必ず私に言った、あなたは私が在籍中は転勤しませんと。こんなこともあった。神戸支店で私は取引先課副課長の時、3月初旬、阪部支店長が言う、徳永君、4月には君を次ぎの課長にするから対策考えておけよ。 まだ課長は在籍しているのだ、鬼籍に入った某課長(京大卒)であった。
4月1日昇格し、某課長は転勤し私は課長となった。まだある、私が課長の時、0氏が本店から次長で転勤してきた、役員の日高神戸支店長は「徳永君、0君はね、何でも俺が、俺がとやる男だけど、一切気にしないで存分にやってくれよ」、ハッハッハッ。人生意気に感ずであった。
12日 故・高橋忠介氏

その一
このお方は、住友銀行の副頭取からロイヤルホテル社長をされた方だが、私の若い時からご縁のあったお方だ。私の本店営業部外国為替課で直属の上司であった。私は現在で言うディーラーの仕事をして、ドルを担当して、三時前になると全国の外国為替店の課長から外貨ポジションの電告を受けてポジションを集計しヘッジしなくてはならない から大変緊張したものだ。上田ハーローとか東京短資に電話のやり取りは緊迫したものだった。
当時、外為ポジションは日銀の制約もありスクエアーを原則としていた。極力マリーを求めつつ、多少のオーバーポジションはオーケーだが原則的にスクエアーにすべく最後は日銀へヘッジした。
13日 高橋忠介氏

その2
また、外国のコレスポンデント銀行との英文によるやり取りも大切な日常業務であった。高橋氏は東大卒の住銀エリートであり、父上は日本硝子会長、叔父上は高橋龍太郎・大日本ビールの創始者、通産大臣もされているなど名門出身。従兄弟の高橋吉隆氏は人事部長(後専務)であった。その高橋氏がロンドン支店から帰国され本店営業部外国課長となられたのである。私の直属の上司である。 ある日、私の書いた英文レターを高橋課長がこんな表現あるのかなと、わざわざ私の机まで来られた。私は反論してそのまま通したことがあった。何も言われないでパスした。このお方の無口と無愛想は有名であり、その後、外国部長、そして副頭取になられてもそうであった。そう言えば外国部の新米の頃、私の英文は平野次長にズタズタに訂正されポーンと投げられたこともあり高橋氏の英国紳士的な態度には心から尊敬をした。
14日 故・高橋忠介氏

その3
高橋外国部長の時、私は神戸支店の外資系・貿易担当であった。私は神戸支店で面白いほど新規貿易取引企業を次々と開拓していた。表彰を受ける為に本店に集合した各店からの列席者10人程度がホテルで馳走になる事があった。着席寸前、最初に私に目を向けた高橋氏が「徳永君、よく頑張ってるね」と嬉しそうに珍しく声を発せられたのは忘れ難い。 そうそう、私が痔の手術で住友病院に一週間程度入院したことがある。私は可能な限り一週間分の先日付で事務処理をして入院した。私が入院中にも拘らず、徳永印のある書類や伝票が次々と廻って来るのに高橋氏は驚き、徳永は責任感ある男だと言われたと同僚から聞いた。
15日 故・高橋忠介氏

その4
私が支店次長をしている時、支店に来て「徳永君はこの店は何年になるかね」とか聞かれた。また青木常務(元副頭取、25年東大)という、末は頭取かと言うお方も支店にこられては同じ質問される。そうこうする内に私は支店長に昇格した。このお方達が私をウオッチして頂いていたのだろうと思う。時の業務部長は独身時代の畏友・堀口氏であった。 定年後だが、私が住友病院で健康診断を受けて院内を歩いていたら偶然、奥様に車椅子を押されている高橋忠介氏に遭遇した。急ぎ駆け寄りご挨拶した。そして少し対話した、病室に入られる時、「では、徳永さん」と云われたのがこの世の最後のお言葉であった。この時、初めて徳永さんと云われた、懐かしい。高橋氏のご冥福を心からお祈り申し上げる。
16日 南荘郎氏 26年東大卒、住友銀行取締役京都支店長をされ、後に川島織物の社長をされた。私には独身寮時代からの先輩だが、心から、今でも「南さん」と呼ぶが、とても暖かいお人柄である。今でも時折自宅に電話してご様子を伺っている。独身寮時代から親しくしている先輩だ。神戸支店の融資課長をされていた時、私は外国為替課にいた。 当時、即ち昭和三十年代後半から大阪堂島の居酒屋「お梅」という小さい店に南さんにお共して以来、私は支店長時代から再び本店人事部時代を経て定年後まで一杯飲むのに永年利用した。お梅さんはとても味のある顔をしているが人情味があった。北の新地の料亭「安井」の仲居頭をしていた由。南さんは律儀だからズート個人的に閉店まで通ったのである、勿論、私も同様であるが、今でもお梅があったらいいなと思っている。
17日 お梅さん お梅は大阪北新地の居酒屋である。私も数十年、気さくに通わせて頂いた、半年付け払いである。住友銀行の、まあ幹部職員が多く、お梅さんは、住友職員は、間違いないから半年に一度、付けを纏めて回収し自分のボーナスにするのが楽しみであったようだ。 10人も椅子に座れば満員となる小さいものだがお梅さんの人柄に立ち寄る人ばかりであった。銀行先輩でニッカウヰスキーの社長の橋本氏もよく来ておられた。お梅さんは、とても懐かしいがもう閉店された。南さんはこのお梅さんの開店三十年祝いを主宰し多くの住友銀行員達が中ノ島グランドホテルに沢山集りお梅さんを祝福したことがある。勿論、私も馳せ参じた。
18日 たに川で安岡正篤先生と 次長時代であった、大阪は南の島之内にあるお茶屋「たに川」に松本支店長に同行してお客の接待を受けたことがあった。その女将は魅力的で、以来、私は支店長となり接待によく利用した。私は真面目だから女将に信用があったと思っている。 このお茶屋こそ、安岡正篤先生と私との歴史的邂逅の場所である。退職後も偶には顔をだしたが近年はご無沙汰している。その息子さんが阪大を出て、立派になられ今は産経新聞のコラムニスト(若旦那の売り込みで「お座敷学」)となり現在連載しておられる。世間は広いようで狭いなと思う、益々繁盛して欲しいものだ。
19日 堀口幸雄氏 このお方は、とても純粋な方で独身寮時代は隣室であり、屋根伝いに掘口氏の部屋に入り畳の上で顎に手を突いて読書などしていた大先輩である。昭和25年神戸大卒、何かとご高配に接して感謝に耐えない。住友銀行では業務部長とか備後町支店長、常任監査役をされたが真面目なお方で三重大学の教授などもされた。南荘郎さんとか四つ柳氏、山田登氏等と新婚早々の堀口氏を訪ねたりしたが奥さんが早く亡くなられた。 基本的には優しい人だが口が悪いのには閉口した。山口幸治さんと、あのお梅でいつも二人で女将に嫌味を言うから内心、女将も嫌な思いを持っていたのだろうが二人は気がつかないようであった。同氏は東豊中、私は宝塚の雲雀丘だから、北新地で飲んで一緒にタクシーで帰り氏の家に途中下車して奥様に挨拶したりしていた。堀口氏は今尚、私の尊敬する先輩である。
20日

故・山口幸治氏

26年東大卒、このお方が神戸支店次長で転勤して来た頃の部下はやや悲惨であった。私は格別のご愛顧を受けていたが、決断の遅い方で、その上24時間勤務を文字通り実行し且つ部下にも要求するから難儀な勤務であった。それでも私には、時々、「おい、徳さん、大福食べに行こうか」など外出時間を利用して神戸元町通りでよく食べた。だが、毎夜、支店を出るのが夜11時前後である、山口氏は夜12時など平気だ。 社宅で待ち草臥れた奥様がストーブを蹴飛ばして火災が発生、長男を亡くされたのは悲劇であった。我々は懸命に後始末のお手伝いをした。それから勤務振りも変化された。尾頭橋支店長時代には有名な蒲鉾などをぶら提げて甲子園の私の家に寄られたこともあった。懐かしいお方であるが数年前に逝去された。逝去の数日前、長文の優しいお手紙を出した、これは虫が知らせたというのであろうか。もう少し話をしておきたいお方であった、心からご冥福をお祈り申しあげる。
21日 伊藤孝氏 神戸高校出身、京都大学29年卒、彼とは今でも時折電話している。神戸支店では同じ課で働いたことがある。取引先課だが、商売の気持ちの無い人で旧制高校生そのものの人柄。南荘郎氏へ傾注しており二人でよく南氏の自宅に正月は酒を飲みに行きた。 だが、銀行が嫌になったのであろう、東京は八重洲口で弁護士をしている。おっとりして超然とした風情がある。秋葉節一次長とはソリが合わぬタイプであった。我々は神戸の諏訪山で、さらば秋葉が去ればとか鬱憤を晴らして叫んでいたものだ。
22日 故・秋葉節一氏 このお方は、山口幸治氏の前任次長だ。私は好感を持たれていた様だし彼と外人との通訳をしたが、中々険しいお方であった。昭和25年一ツ橋卒である。畑さんという27年京大卒の外国為替課長を取引先副課長に降格するとかを平気でやるから戦々恐々の我々部下であった。常務で東京本店営業部長をされた時訪ねたことがある。全国取引先課長会を東京本部で施行した時、秋葉業務部長が意地悪な質問をする、私の列の最前列が指名されて順番に質問する、私は前列から5番目、参ったなと思って覚悟していたら私を飛ば して6番に質問が飛んだ、可笑しかった。配慮していたのである。喧嘩早い、険しい人物で蹉跌した部下が多かった。住銀退職後、サラ金大手の武富士の社長をされた。神戸支店時代、ゴマスリみたいな腰巾着の某課長が引き抜かれた。私と同僚南健一氏も秋葉氏が住友カード社長の時に銀行から引き抜かれそうな気配との噂があり懸念したが、私は意図的に反抗的態度を示したので免れたと思う。このような人物は初めての遭遇であった。
23日 古き良き神戸支店を懐かしむ会 このメンバーは実に素晴らしい、懐かしい人ばかりだ。幹事役は、何と申しても住友銀行の秘書室長をしていた古田完氏、柔軟な思考と行動力と弁舌には敬服する、36年慶応大卒。顔はとてつもなく広く彼の紹介で心斎橋の割烹店に6人集まっことがある。
その他のメンバーは、福徳円満そのものの繁益幸雄氏(30年神戸大卒)、魅力ある行動派、日本ペンクラブ会員の南健一氏(34年京都大)、
愛妻家でスラリとした長身のピアニスト長谷川義彦氏(34年神戸大)、画家ジョルジョ・モラン研究家の杉田侑司氏(38年神戸大)と多士済々である。みな神戸支店の取引先課、融資課、外国課で働いた者ばかりで往時の回顧談は途切れることはなく、和気藹々たるものだ。皆70才を越えたが元気そのものだ。住友銀行出身者の錚々たる人材には我ながら驚嘆する才能溢れる者ばかりだ。
24日 錚々たる人脈 こうして若い時の過去を回顧してみると、独身寮とか本店外国部、本店営業部外国為替課、そして歴史的大店舗・神戸支店関係の人脈が圧倒的である。この三つの部・支店の通算勤務は20年となるのだから当然であろう。 全て住友銀行の幹部首脳クラスとなる人材ばかりなのである。更に最後の勤務場所・人事部の人材は同期トップクラスばかりで、住友銀行首脳陣と同一であった。
25日 神戸支店 私が着任した時は一課員、時の支店長は、副頭取になられた波多野氏(東大)、次長は頭取となられた巽外夫氏(23年京大)、外国課長が森本氏(25年京大、武田薬品の御曹司)、外国副課長は伊藤朝夫氏(27年東大、元ニューヨーク支店長、元住友電工副会長)、融資課長が南荘郎氏(26年東大、川島織物社長)、何れも住友銀行を代表する錚々たる人材であった。私は神戸支店が長かったから支店長を想起してみよう。 波多野氏の次ぎは備後町支店長からの中村盛太郎氏、芦田氏、調査部長から転勤してきた大内山氏(大阪市大)、阪部氏(神戸大)、日高氏(東大)とみな役員ばかりであった。私は着任2年後には外国課の次席になった。一々履歴は省略するが広く住友銀行を見渡しても一流の方々ばかりであった。この体験が神戸支店後の私にマイナスに働いたのも事実であった。
26日 堀田庄三頭取と武田長兵衛氏 私が若い20代半ばの本店勤務の頃、堀田庄三頭取と言えば、もう雲の上の存在である。住友銀行中興の祖でありその銀髪で端正、気品高い風貌、眼力、政治経済界に於ける氏の存在は日本財界の超一流の存在であった。どのようなお方かは写真だけであったが、ある日偶然本店の役員エレベーターで拝見した、私より小柄であったのには驚嘆した。巨大な存在であり人間が大きく見えていた。 そのエレベーターに堀田氏と共に降りてこられたのがこれまた小柄で肉つきのいい武田薬品のオーナー、武田長兵衛氏(上司・森本淳氏の叔父)であった。堀田頭取は本店玄関まで武田長兵衛氏を見送られた。武田薬品は住友がメインバンクであり、聞く処では、毎月初めには会社の実情報告と共に堀田氏より内外の情況を聞きに見えられたと聞いた。良き時代の企業と銀行の関係である。堀田氏は戦後、松下電器とかブリジストン石橋(鳩山総理の祖父)とか多くの一流企業の育ての親であった。
27日 堀田パーティ

その堀田頭取が大阪本店に見えて関西の一部重要企業のトップを招きパーティをすることとなった。その会場には主要支店長のみ参加できるのだが、神戸支店にはネスレなど外資系企業の外国人も来るので通訳として特別に私は入室を許可されたことがあった。えらいものだ。同様なことが神戸でもあった。堀田頭取が神戸オリエンタルホテルで数十人の神戸地区重要企業を

集め後援会をされた時も私のみ懇親パーティに入場を命じられたものだ。頭取は青辰という元町通りの裏にある著名なアナゴ寿司がお好きで、それを受け取りに行きたのたが、老いた主人に食べさせて頂く風の老舗であったことを思いだした。同様なことは、神戸港に近い特注蒲鉾製造業者へ特注の蒲鉾を受け取りに行ったことがある。
28日 取引先課 外国関係では赫々たるキャリアーがあった私だが29歳で名門・神戸支店外国課のナンバー2は早すぎると思われたのであろう。私は外国課から取引先課へ移動した。住友では、取引先課は登竜門であり、憬れの課なのである。私は温厚でとても不向きと思われていたようである。これは後で先輩の南荘郎氏から聞いたことだ。元町通り商店街と言えば古き良き商店街で著名である。住友銀行は元来製造業が主たるもので商業に弱かった。 実は私が取引先課就任早々、元町通り三丁目の商店30ヶ店を一挙に新規獲得し一店辺り300万円を融資した。これは本店業務部の模範成功事例として故・杉本氏が採用した。 (杉本氏は元常務、三洋電機副社長、神戸大。元頭取・伊部氏の甥、神戸支店時代の同僚、彼をよく私の車に乗せてあげた。モルモン教徒で絶対にコーヒー、酒、紅茶さえ飲まぬ超真面目人間。)