傘寿」記念特集   雲斎の「回想」その三人生とご縁と宗教   

  はるけくもあゆみ越しかな山々を 八十になれど道なお遠し  岫雲斎圀

        住友家家訓    住友村  住友村2  住友銀行本店営業部の大伽藍

        徳永圀典の「住友銀行」とは        「岫雲斎の回想」−−総括索引

この二つのビルで私は24年間過したことになる。

懐かしき
住友銀行本店
思い出溢れる
住友銀行神戸支店

平成22年3月

3月 1日 (はな)(くま)  当時の神戸支店長は芦田氏(住金物産専務へ転出)で好人物であった。この元町商店街獲得にとても喜んだのであった。元町の店主は旦那ばかりであり支店長と徳永を神戸の花街の(はな)(くま)は花緑という料亭に招待するという。私は30歳くらいであろうか歌謡曲も知らぬし遊びには縁がない。それで困って自宅とか通勤途上に歌曲「松風」を懸命に覚えた、踊りの解説を見て踊りも覚えた。 さあ、招待の日、旦那ばかりの店主だから皆さん色々と芸達者だ。全国眼鏡連合会長の鳥越静助氏とか、三田氏、それは昔の大棚のダンナという風情の人ばかりであった。私は支店長と二人だ、下っ端がやらなくてはならぬ。舞台に上がり松風を歌いつつ踊った。ヤンヤの喝采であった。後で支店長が、あの温厚な徳永君がね・・・と目を細めたと聞いた。
3月 2日 尊敬してやまない花村邦昭氏 私の尊敬するお方である、東大卒、日本総合研究所の社長から現在は大妻学院の理事長をされている。人格者である。私が最初の支店長時代、銀行が閉門してから裏口で入ってこられた。支店長席に座っていた私は横を向くと裏の通路から入られた花村氏と眼が逢い、その時のあの花村氏の笑顔は焼きついて離れない。私が安岡正篤先生の知遇を得、台湾訪問の時も全て心地よく人事部長として了解して下さった。 副頭取の岩沢正二(一ツ橋卒)氏と共に安岡正篤先生の高弟であった。今尚、尊敬してやまない花村氏である。
その花村専務は、銀行最後のポスト、本店人事部審議役に就任した時、私にこんなことを言われた、「あんたは住友銀行にずーっとおったらいいよ」と、詳しい意味は聞き返すことをしなかったが、特命担当を定年後も嘱託としてやるという具合に受け止めた。これはかなわんなと思った。
3月 3日 人事部勤務 特命事項の内容は企業秘密だから避ける。だが、私の得た最高のものは、人事部職員の優秀なことであった。大体、各同期のトップが人事部に在職していた。私はもう定年前だがみんな前途ある人々だ。次長は副頭取、課長クラスも現在の相京副頭取など専務、常務と昇進している。 あの土田氏は逝去されたが、慧眼な吉田人事部長は副頭取から住友リース社長、慶応大学教授そして現在はリチューム電池の会社を創業された。栗山氏は副頭取から住友カード社長、会長、現在は奈良県顧問をしておられる。私は支店長時代から栗山氏に惹かれており、尊敬してやまないお人柄である。
宗教について 仏教家に告ぐ・物を超越せよ
3月 4日 仏教家に告ぐ・物を超越せよ 仏教とは、単純明快に言えば、この現実の世界は仮の姿であとして、来世を説く。そして、この世は「色即是空」であることを衆生に教えている。「色」即ち「この世の形あるもの、そして形無き意識から眼界」まで「空」だとしている。 さすれば、仏教は、自らそれを実行し実践しなくてはなるまい。それには、僧侶自ら、物を超越する、物質世界を超越すると言う実践の模範を示すことではないか。
3月 5日 墨染めでいいだろう

金襴緞子の僧衣も不要であらう、庶民には苦々しいばかりで不要である、墨染めでいいだろう、道元禅師は常にそうされた。立派な伽藍もお堂もいらないではないか、僧自身が、物に超然としなくてはなるまい。

さすれば信徒は増大し、黙っていても「お布施」が増えるのではないか。お布施とは本来そのような性質のもので、(そその)かすものではない。まして近年は請求すらすると小言を聞いた。
3月 6日 ビジネス仏教 関西地区の友人によると、仏教にはついて行けないから神道にする人が増加しているという。神道は諸般に慎ましいからであろう。自ら、この世的な物質世界に超然としていることこそ僧侶に必要であるのに、多くの寺院や僧は逆のことをしている。 ビジネス的仏教になっているのではないかと多くの方々から聞く。勿論、フランスでカルトと言われている創価学会の類いのものは問題外であり私は宗教とは思わない。
3月7日 神道の謙虚さ 我々は俗界にいる人間だから許されるとしても、僧籍にあるものは、物質を越えた存在であると俗人に範を示してこそ、尊敬され自発的に喜捨もしたく思うのである。これが多くの人の思いでもあろう。 神道や神社や皇室を見るがいい、天皇陛下を初め、宮司や神職を見るがいい、「(こと)()げしない」神道の原理を守り、実に素朴に質素にしておられる。
3月 8日 神道の平等性は縄文時代から

賽銭など所望はされない。神道では、人間が死んだら平等で戒名の格差もない、ただ自分の名前の後に「命」即ち「みこと」をつけるだけである。

私なら「徳永圀(とくながくに)(すけの)(みこと)」となる。平等そのもの。日本は縄文時代からこのように平等思想がある。これこそ、現今日本に最も必要な精神的要素。
3月 9日 鎌倉の祖師を学べ 鎌倉時代の仏教の宗祖は素晴らしかった、自己研鑽は当然、命懸けの社会性を見習うがいい。寺に籠もりきりではないのだ。現在は、末世そのものであろう、頽廃は著しい。僧侶たちは、何とも無いのか。どうして、僧たちは街頭に裸足で進出し、乱れた青少年に、宗祖のように叫び、 説法し、身を賭して戦わないのか、それでは衆生は救えない。それでは、なんら我々衆生の俗界の人間と変わらないではないか。お経を唱えるだけでは、救われない社会の現実に眼を向けるべきである。鎌倉の宗祖は命懸けで街頭に進出し衆生に説いたではないか。
3月10日 宗教とは 1.  神とか超越的な絶対者、2.  神聖なもの、に対し信仰・帰依して、現世を生きる悩み多き衆生を教導して、この世で悟りに至らしめるものである。その為の教導者が宗教家であろう。 神道は神主、仏教は僧侶、キリスト教は牧師である。キリストは問題外、仏教は神社より遅れて登場したが日本の血となり肉となっている。僧侶たちは、神道の簡潔・素朴・質実さを見習うべき。
3月11日 死後の世界、釈迦は何を語ったか  仏教に(じょう)(みょう)という言葉がある。人間の命は生まれた時点で定まっていて変えることが出来ないということ。 理不尽(りふじん)なことだが、それが現実。だから、明日の事を思い悩まないで、今日出来ることは今日しておくがよいと云う事になる。
3月12日 誰にも分からない 死は誰にも分らない、ましてや死後の世界は誰にも分らない。釈迦に死後の世界のことを執拗に聞いた弟子がいた、名前は摩邏迦(まらか)、それで釈迦が言われた。ここに毒矢で射られた男がいるとする、周囲の人々が慌てて医者を呼ん だ。すると毒矢に射られた男が医者に向かい、「そんな治療をする前に、まず俺を射た男を捜してくれ。そして使った弓がどんな形で、材料で、毒の種類も調べて欲しい、その答えが出ないうちは治療しては困る」と。
3月13日 大事なのは今の苦難 釈迦は摩邏迦(まらか)に、この男をどう思うと聞かれた。摩邏迦はその男は大バカだ、その間に毒が廻り死んでしまう。釈迦は、お前の死後の世界の質問も同じことだよと云われ絶句した。釈迦は、大事なのは毒の正体を知ることでは ない、まず毒矢を抜いて、苦しみを除去することだ。死後の世界の問題に拘る場合ではあるまい、大事なのは今の苦しみをどうやって克服すべきかと言うことだ。幾ら考えても分らないことは考えるのをやめなさい、と。
3月14日 ノーコメントのお釈迦さん お釈迦様は生前、決して死後の世界や霊魂の存在などという問題についてお話しにならなかったと云う。色んな弟子が聞いたが一切お答えにならなかったという。これを釈迦の「無記」という。ノーコメントのことである。 お釈迦様は死後の世界があるかどうかという議論を全くされなかつた。死後の世界があるのか無いのか、霊魂が実在するのかしないのか・・・こんなことはお釈迦様でも分らない。
3月15日 仏顔

分らないことは分らない。そんなことは考えず、今の人生をしっかり考えようというのが仏教の基本。死後の世界は死ねば分るから、だから生きている間は只管、今どうやって生きるべきかを考えなさいというわけである。釈迦は言われた、人間の心の中に無明(むみょう)があるから

生きている間、我々は苦から離れられない。人生は苦しみ、悲しみの連続。でも死ねば我々の心から無明が消えるから、その無明が産み出した苦も無くなる。だから死んだ人の顔は穏やかな顔をしている。イヤらしい顔をしていた人でも一晩たつと「仏顔」になっている。

3月16日 この世にこそ極楽を 病気で苦しんだ人も、色々な悩みで苦しんだ人も、死ねば痛みや苦しみから離れることが出来る。残された人も心配することはない、みんな浄土に渡っておられ、阿弥陀様が彼岸に導いておられると仏教はいう。仏典に書かれた地獄は私たちの心に在する。 他人を嫉妬したりすれば心の中は炎で焼き尽くされるのが人間。その痛みは激しくて途絶えることはない。これが地獄の苦しみである。死ななくても我々は地獄に生きている。生きているということ自体が苦しみ、死んでからまで地獄に行く必要はない。
3月17日 葬式仏教 お釈迦さんは「まだ体験していない死のことを考えたり煩うな、今、生きていることのほうを大事にせよ」と教えたのだ。日本では、葬式仏教と言われるくらい坊さんの 仕事は葬式か法事くらいに思われている。
一般人と変らぬ生活をしていて、少しも修行しないで、つまらぬお説教などをするなと言いたい。
3月18日 お釈迦さんの遺言 それは「生の教え」である。死後のことはそれほど重きを置いていなかつたのである。今、生きている我々が生きている間に、どうやって幸福になるか、如何に生きるかということを研究して教えてくれるのが本来の仏教であろう。  お釈迦さんは、決して「葬式を派手にしろ」とか「墓は大きいほうがいい」なんて一言も言われていない。亡くなった方の供養も大事だが、それよりも生きている自分のことを大切にしなさい」というわけである。
3月19日 「死んだあとは、お前達自身と仏法だけを頼りにせよ」 お釈迦さんは80歳で亡くなられた。その直前に弟子たちが、「亡くなられたら、ご遺骸をどうしようと」相談していた。そんな時もお釈迦さんは、「そんなことは心配するな、お前達は自分の修行のことを考えておれ。私の葬儀については在家の信者たちが供養してくれるはずだから、それに任 せておけ」と云われた。お釈迦さまは、「死んだあとは、お前達自身と仏法だけを頼りにせよ」と云われた。だが、その遺言は必ずしも守られていない。
お釈迦さまは、ご自身の葬式なんてどうでもいいと思っていたのである。
3月20日 最澄や親鸞の言葉と
現代ビジネス仏教

お釈迦さまの、この考え方は、日本の仏教に脈々と伝っている。
例えば、天台宗の開祖・最澄は「私の供養のために、仏像を作ることはない

写経することもない。私の遺志だけ継いでくれればよい」と言って亡くなられた。
浄土真宗の開祖である親鸞は「私の遺体は賀茂川の魚に与えよ」と云った。
3月21日 道元はお釈迦さまの教えに忠実

曹洞宗の開祖・道元はお釈迦さまの教えに忠実で、「死者の追善法要などは在家の人がやることである。僧侶のやることではない」と教えている。父母の恩を思うことは大切だけど、それと形式的な葬式は関係ないというわけである。
時宗を開いた一遍は遺言で自分の葬儀のことを次のように述べている。 

「葬礼を改まって行なう必要などない。私の遺骸など野にうち捨てて、ケダモノに施してやれ。ただし、在家の信者が弔いをしたいというのであれば、させておけ」本来、仏教は生きておる人の苦を無くし、楽を与えるための教えである。これを「抜苦(ばつく)与楽(よらく)」という。あくまで生きている人たちが主である。
3月22日 形式的儀式なんて要らない 前述のようにお釈迦さまも、仏教の開祖・高僧もみな「葬式や法事のような形式的儀式なんて要らない」と言っていたのである。そんな仏教が、今日のような葬式専門の仏教になぜなったのか。最大の原因は、江戸時代に檀家制度が出来たからである。江戸幕府は、キリシタン禁令を口実に「宗門改め」という庶民が必ずどこかのお寺の門徒にならなければいけないとした、それからである。 それから人々は、どこかのお寺の檀家なのかは人別張に掲載され、それが一種の戸籍となったからである。
この結果、江戸時代になると仏教は本来の姿を失ってしまったのである。
布教の努力をしなくても仏教徒になってくれるから、教えを広める必要がないのであり僧侶が堕落したままなのである。お寺は信仰のためでなく葬祭場になったと云える。
3月23日 檀家は寺から逃げだせない仕組み 元来、日本は世界でも最も仏教が熱心な国で、「十三宗五十六派」と言われるほど、様々な宗派が開かれている。宗派とは日本独特なものである。それだけ、どうしたらこの世の苦から抜けられるか仏教者が必死になって模索したからである。 江戸時代になるとその熱気と情熱は急速に薄れた。宗教の「自由競争」が無くなったからである。為に江戸時代に宗教が堕落して檀家の葬式と法事だけしかしない住職となった。それでも檀家は幕府の命により寺から逃げることが出来ず、それが今日まで続いている。 
3月24日

いかに生きるべきかの無いお寺

本来なら寺とは、「いかに生きるべきか」を伝えるべき場所であるが亡くなった方にお経をあげるだけの場所と思われている。現在、悩みを抱えている人こそお寺に行くべきである。処が葬式と法事だけのお寺に成り下がっている。先祖を担保に取られているからで、信仰の真の自由が必要であろう。  亡くなった人に付ける名前だと思う人があれば大間違い。
仏教に帰依した人に対して与えられるのが法名である。出家する時に行われる「受戒」にちなんでいる。出家し、今後は仏教の戒律を守りますことを誓った人の名前が法名。
3月25日 自分で自分の心を鍛錬しなさい

在家出家」即ち、本来の仏教徒なら生前に戒律を受け貰うものが戒名である。死んだ人をあの世に仏教徒として送るのに必要なのが戒名。だから葬式の時に得度式をして戒名をつけるのである。お釈迦さまは、弟子のアーナンダに遺言された。「お前達は自分たちを明かりとしなさい。人をよりどころにするな。仏教をよりどころにして、他を頼るな。

自分が死んでも、自分の銅像を拝めとか、一番弟子のいうことを聞けとか云われなかった。
あくまで頼りにするのは自分だ。自分がしっかりしなくては誰も助けてくれない。
自分で自分の心を鍛錬しなさい、自分の姿を反省して正しい行いをしなさい」言われた。
 
3月26日 仏教を守り信じるのだよ

バツカリという弟子が不治の病で倒れた。友人に「私の命はもう尽きる。お釈迦さまのお顔を拝見したい、だが体力が無い、恐れ多いがお釈迦さまにお出まし願えないか」と。お釈迦さまはバツカリの家に行く、泣いて喜んだ。その時、バツカリにこう説法された。

「バツカリよ、私の老いさらばえた身体を見た処で、何の役に立ちはしない。
大切なのは私ではない。仏教だ。仏教を守り信じるのだよ」と。バツカリははっと悟った。お釈迦さまはご自分を神格化されなかった。近代的知性があり親近感がある。
3月27日

人生を諦めてはいけない

お釈迦さまの臨終には何の奇跡も起こらない、ベッドの周りの四本の沙羅双樹の樹が亡くなると同時に真っ白になり枯れただけ。あれだけ素晴らしいことをされながら、普通の人と同じように老い、病に倒れ、亡くなられた。お釈迦さまは「人生は苦に満ちている」

と認識しながらも「この世は美しい。人の命は甘美なものだ」という美しい言葉を残しておられる。これこそが仏教の教えである。人生は悲しいことの連続である。生まれてこなければとさえ思うこともある。だからと云って人生を諦めてはいけない。

3月28日 四諦(したい) お釈迦さまの悟られた内容を「四諦(したい)」という。諦は諦めるの意味ではない。「真理を明らかにする」という意味のサンスクリット語である。 四つの真理とは、
苦諦(くたい)」、「集諦(じつたい)」、「滅諦(めつたい)」、「道諦(どうたい)」である。
苦集滅道(くじゅうめつどうう)」の四つである。
3月29日 「苦諦」 「苦諦」とは、どうしてこの世の中に苦しみがあるのか、その原因を考えること。苦の原因は煩悩や執着だという真理である。 この世は苦しみに満ち溢れているという真理。生きている以上、「生老病死」の四苦から逃れられない。それらの苦しみを経て最後は死が待つ。生まれて来ること自体が既に苦である。 更に四つの苦をお釈迦さまは分類された。
(あい)別離苦(べつりく)」、
怨憎(えんぞう)会苦(えく)」、
()不得苦(ふとっく)」、
五蘊(ごうん)盛苦(じょうく)」である。
3月30日 「十二因縁」 欲望の最大、最悪のものが渇愛(かつあい)、むさぼるような欲望である。生きている限り、心が動いている限り、絶えず様々な苦しみに悩まされるのが人間であり人生。お釈迦さまは「集諦(じつたい)」の真理を詳しく精密にという形で説明しておられる。 「十二因縁」
無明(むみょう)(ぎょう)(しき)名色(みょうしき)六入(ろくにゅう)(そく)(じゅ)(あい)(しゅ)()(しょう)老死(ろうし)である。
3月31日

(はっ)正道(しょうどう)

道諦(どうたい)」我々は、どうすれば、無明を滅し、涅槃に至ることができるか。お釈迦さまは菩提樹の下でその方法を悟る。これが最後の「道諦(どうたい)」である。道とは涅槃に至る道、無明を消滅させる方法、この方法を「(はっ)正道(しょうどう)」という。(はっ)正道(しょうどう)」とは、八つの正しい実践方法である。 @正見(しょうけん)(正しく見る)
A
正思(しょうし)(正しい答え)
B正語(しょうご)(正しい言葉)
C
正業(しょうぎょう)(正しい行い)
D(しょう)(みょう)(正しい生活)
E
正精進(しょうしょうじん)(正しい努力)
F正念(しょうねん)(正しい気遣い)
G正定(しょうじょう)(正しい精神統一)